その他 三国志

馬日磾(ばじつてい)は太傅となるも非業の死を遂げる

2022年7月16日

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名前馬日磾(ばじつてい)
生没年生年不明ー194年
時代三国志、後漢末期
コメント後漢王朝の高官を歴任

馬日磾は正史三国志や後漢書に名前が登場する人物です。

正史三国志や後漢書だけでなく、漢末名士録の中で胡母斑が王匡に出した手紙の中で「太傅・馬公(馬日磾)」の言葉もあり、後漢王朝の高官だった事は間違いないでしょう。

三輔決録注によれば、馬日磾の字は翁叔で、鄭玄の師にあたる馬融の族子だとあります。

鄭玄は後漢末期で最高の学者とも言われており、馬氏の家柄はよく高官を歴任した名士だったはずです。

馬日磾は後漢王朝の太傅となりますが、袁術と面会した時に節を奪われ非業の死を遂げました。

今回は後漢末期に高官となり、関東の地で亡くなった馬日磾のお話です。

後漢王朝の高官となる

馬日磾は馬融の学問を受け継ぎ、才知と学識の高さから取り立てられたとあります。

馬日磾は若い時から将来の片鱗を見せており、馬融に近い位置にいた事で多くを学ぶ事が出来たのでしょう。

朝廷の仕えてからの馬日磾は楊彪、盧植、蔡邕らと、中書の五経記伝を校正し漢記を補続した話があります。

馬日磾は家柄も良く、業績も認められた事から九卿の位を歴任し、三公にまで位が昇りました。

馬日磾は順調に出世し、後漢王朝の高官を歴任した事になるでしょう。

これが安定した時代であれば、馬日磾も人生を謳歌し、生涯を全うする事が出来たのかも知れません。

しかし、馬日磾の生きた時代は後漢末期であり、霊帝死後に董卓が実権を握るなど政治に混乱が見られました。

揚州に向かう

初平四年(西暦193年)に董卓は亡くなっていましたが、関東では互いに争い群雄割拠となります。

献帝は関東の混乱を鎮めようと考えており、太傅の馬日磾と太僕の趙岐を派遣し、叙任を行い鎮めようとしました。

趙岐は北方に向かいますが、馬日磾は南方に行く事になります。

正史三国志の華歆伝に、馬日磾が華歆を召し出して掾とした話があります。

これを考えると馬日磾に華歆が同行した事になる様にも思います。

ただし、華歆は董卓暗殺計画に失敗した鄭泰と共に武関に向かった話もあり、この辺りは差異が出ている状態です。

華歆は鄭泰が董卓暗殺計画に失敗した時に、共に武関に向かって逃げたが、その後に王允が呂布と共に董卓を誅殺した事で、華歆は引き返したのかも知れません。

それか南方にいた華歆を、馬日磾が呼び寄せ掾とした可能性もあるはずです。

孫策に会う

馬日磾が寿春に行った時に、丁重な礼により孫策を召し寄せ上表して、懐義校尉の官を授けました。

この時に孫策と馬日磾が会談を行い、馬日磾の側近らが孫策に次の様に述べた話があります。

「東方の士は才能はあるが、学問が狭く議論をすると中原の者に及ばぬ所があるのが残念だ」

上記は虞翻伝にある孫策と虞翻の会話ですが、この時に孫策は反論しなかったとは思いますが、腹の中では「そのような事はない」と感じていた様です。

尚、馬日磾は孫策配下の朱治にも官を授けた話があります。

袁術に節を奪われる

馬日磾は袁術とも面会した話があります。

献帝春秋によれば、この時に袁術は馬日磾に「節を見せて欲しいと述べ」馬日磾が節を見せると、袁術が奪い取ってしまった話があります。

袁術は馬日磾に節を、返還しようとはしなかったわけです。

さらに、袁術は「軍中から十余人を候補者として書き並べ、早く彼らを三公の属官に招聘せよ」と急き立てたとあり、かなりの暴挙に出たとも言えるでしょう。

袁術の乱暴な態度に対し、馬日磾は次の様に述べました。

馬日磾「貴方の家の先代の方々が、士人を招聘する場合を思い出してください。

それを急かせるのは、三公の府の掾を脅しにより、手に入れようとお考えなのか」

馬日磾は堂々と袁術に言い返したのでしょう。

馬日磾は袁術の元を立ち去ろうと考え、解放する事を要求しますが、袁術は許しませんでした。

袁術は馬日磾に対し、無礼な働きをした事で、ここで帰してしまったら「何を言われるか分かったものではない」と考えたのでしょう。

馬日磾の最後

馬日磾ですが、袁術からされた行為を考えると、穏やかではなかったはずです。

この後に、馬日磾は屈辱と憂い、怒りにより亡くなったと記録されています。

馬日磾は名士でもありプライドも高かったのでしょう。

非業の死を迎えたとも言えます。

馬日磾が亡くなると、三休の一人に数えられる金尚も同時期に亡くなっており、馬日磾と金尚の遺骸が都に送られる事になります。

金尚は袁術から大尉の打診をされそうになりますが、郷里に逃亡しようとして捕まり亡くなった人物です。

因みに、金尚は献帝に忠義を称賛され、子の金瑋が郎中に任命された話があります。

それに対し、馬日磾の方はこうした恩恵に属さなかったとあります。

馬日磾と金尚が亡くなった時に、なぜこの様な差が出来てしまったのかは定かではありません。

馬日磾は無念の死を迎えたとも言えるでしょう。

馬日磾の能力値

三国志14統率43武力25知力70政治58魅力52

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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