三国志 魏(三国志)

鄭渾(ていこん)は地域の発展に大きな功績を残す

2022年7月15日

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名前鄭渾(ていこん) 字:文公
生没年不明
主君曹操→曹丕→曹植
時代後漢末期、三国志、三国時代
一族先祖:鄭興、鄭衆、鄭紼 父:鄭熙 兄:鄭泰 子:鄭崇
コメント鄭陂(ていひ)など地域の発展に大貢献した

鄭渾の字は文公であり、司隷河南郡開封県の出身で、正史三国志に登場する人物です。

鄭渾の先祖には儒者として、名声があった鄭衆や鄭興がいます。

鄭渾の兄は鄭泰であり、荀攸や王允、何顒、种輯、伍瓊らと共に、董卓暗殺計画を立案した人物でもあります。

鄭泰は知略に富んだ人物だったわけですが、鄭渾も鄭泰に劣らぬ能力を持ち、内政や軍事に活躍しました。

関中の梁興討伐においては、見事な戦略を立て勝利に多いに貢献しています。

鄭渾は政治、軍事、兵站など多彩な能力を発揮し、有能な太守であった事は間違いないでしょう。

尚、鄭渾は正史三国志の『任蘇杜鄭倉伝』に列伝が立てられています。

任蘇杜鄭倉伝には下記の人物が一纏めにして記載されています。

任峻蘇則杜畿鄭渾倉慈

袁術の失敗を予見

鄭渾の兄の鄭泰は、董卓暗殺計画が露見し失敗した事を悟ると、華歆らと共に武関から脱出しました。

鄭泰や華歆の一行は6,7人だった話があり、この中に鄭渾や鄭泰の子の鄭袤もいたのかも知れません。

鄭泰は後に袁術から揚州刺史に任命しますが、任地に向かう途中で亡くなってしまいます。

兄の鄭泰が亡くなると、鄭渾は兄の子の鄭袤を連れ、淮南に向かいました。

名士の劉馥袁渙張範なども淮南に避難した記録があり、当時の中原の地は荒れており南に避難する人が多かったのでしょう。

淮南の袁術は鄭渾がやって来た事を知ると、丁重に扱いますが、鄭渾は袁術が失敗すると考え、袁術に仕える事はせず、兄の鄭泰の友人である豫章太守の華歆を頼りました。

尚、劉馥や張範も袁術に仕えてはおらず、袁術は何処か敬遠されていた部分もある様に感じます。

後に曹操は鄭渾が誠実だという話を聞き、興味を持つ事になります。

善政と「鄭」の字

曹操は鄭渾が誠実だという話を聞き、鄭渾を掾に任命し、後に下蔡県令とし、邵陵の県令に任命しました。

鄭渾伝によれば、この時は天下がまだ安定しておらず、民衆は軽はずみな者が多く、真面目に働いて財産を蓄え様とする者は少なかったとあります。

子供を生んでも育てないなど、今で考えれば、かなりの無法地帯となっていたのでしょう。

県令となった鄭渾は民衆に漁業や狩猟の道具を与え、農業と養殖を積極的に行わせました。

さらに、土地を増やす為に新しい土地を開墾し稲を植え、捨て子に対する処罰を重くし、社会の安定を図ります。

鄭渾は法律に厳格であった様で、民たちは最初は法律に抵触する事を恐れて従っていましたが、段々と生活が豊かになった話があります。

鄭渾伝の記述によれば「皆が満ち足りた生活となった」とある事から、鄭渾が如何に民衆の為に苦心したかが分かります。

民衆は鄭渾を尊敬し、信頼したのか男の子が生まれても、女の子が生まれても、字に「鄭」を付ける者が多かったとされています。

これを考えると、鄭渾は民衆にはかなり慕われていたのでしょう。

鄭渾の内政の見事さの結果とも言えます。

曹操は鄭渾を召し出し、丞相掾属としました。

梁興を討つ

曹操は潼関の戦いで、涼州の馬超、韓遂、梁興らに大勝しました。

曹操は涼州軍を破りはしましたが、梁興などは残党を率いて各地を襲撃していたわけです。

鄭渾伝によれば梁興らは、五千余家の官民を取り込み、略奪を働いていたとあります。

梁興の勢力に対し民衆は多いに恐れますが、県では対処する事が出来ず、役所を郡都に寄留したとあります。

この時に多くの者は堅固な地に役所を移すべきだと考えた話がありますが、鄭渾は次の様に述べました。

鄭渾「梁興らは戦いに敗れて散り散りとなり、山険に隠れ住んでいるに過ぎない。

付き従っている者は脅されて従っているだけだ。

現在の状況であれば、降伏出来る様に取り計らない、恩愛と信義で諭すべきである。

それにも関わらず、堅固な要害に立て籠もるのは、こちらから弱さを見せる行為に他ならない」

鄭渾は状況を分析し、梁興に対し過度に恐れる必要はないと述べたわけです。

ここで鄭渾は城の防御を固め、信賞必罰を明らかとし、賊を捕えた者は7割を褒賞とするなど、大盤振る舞いを見せます。

民衆は喜び自ら勇んで賊を捕え、婦女や財宝を大量に獲得した話があります。

賊の中で夫人を失った者は進んで降伏する様になり、鄭渾は捕虜にした夫人を降伏した者には返還した話があります。

賊たちが互いに争う様になると、梁興は恐れ鄜城に集結しますが、ここにおいて曹操は梁興の完全征伐を目論みました。

曹操は夏侯淵や徐晃を梁興討伐に向かわせます。

この時に鄭渾の活躍は大きく、自ら軍の先頭に立ち梁興と一味を斬る事に成功したわけです。

梁興討伐を見ると、鄭渾が政治に優れていただけであり、勇猛さも兼ね備え優秀な指揮官であった事が分かります。

さらに、鄭渾は靳富を破り、程休を殺害した趙青龍も晒し首としました。

梁興は上党太守に任命される事になります。

京兆尹に就任

正史三国志の鄭渾に次の記述が存在します。

※正史三国志 鄭渾伝より

太祖は漢中を討つ時になると、鄭渾を京兆尹に任命した。

正史三国志の本文に漢中を討つとあり、西暦215年の曹操による張魯討伐の頃に、鄭渾を京兆尹に就任したのでしょう。

この時に鄭渾は移住法を制定し、単身の者と家族を持っている者を一組とし、温情信義のある政治を行ったとあります。

鄭渾は民衆には安心して、農業が出来る様に取り計らい、盗賊は消滅したとあります。

ここにおいても、鄭渾が高い政治力を発揮し、民を富ませ地域を安定させた事が分かります。

曹操の軍が漢中に入ると、鄭渾は兵站を担当し、迅速な食糧輸送により第一の成績を上げたと記録されています。

鄭渾は内政や軍事に優れていただけではなく、裏方である兵站を繋ぐ事も得意とするオールラウンドな能力を持っていた事が分かるはずです。

さらに、鄭渾は民を漢中に派遣し、耕作を行う様に取り計らいますが、逃亡した者はいなかったとあります。

こうした鄭渾を曹操が評価しないはずもなく、曹操は鄭渾を中央に呼び戻し丞相掾としました。

鄭陂(ていひ)

曹操が亡くなると曹丕が後継者となります。

曹丕は後漢の献帝から、禅譲という形で皇帝になりますが、鄭渾が司馬懿、羊秘、鮑勛、武周らと共に、曹丕が帝位に就くように言上した話があります。

曹丕の時代に鄭渾は侍御史となり、駙馬都尉の官も足され陽平郡と沛郡の太守に任命されました。

鄭渾は二郡の太守となりますが、郡境地帯は土地が低く湿気が多かったとあり、水害も重なり民衆は飢餓に苦しんでいたとあります。

鄭渾はこうした状況を見るや、蕭と相の二県の境界に堤防を作り稲田を始めました。

鄭渾の考えに反対した住民が多くいましたが、鄭渾は次の様に述べています。

鄭渾「ここの地勢は低く落ち込んだ場所にあり、灌漑工事が成功さえすれば、永久に魚と稲の恩恵を受けられるはずだ。

これは民を豊かにする根本になるに違いない」

鄭渾は自ら民を引き連れて仕事を始め、一冬の間に全て完成させたとあります。

過去に鄭渾は自ら軍を率いて先頭に立った話もあり、計画を立案するだけでなく、陣頭指揮も得意だったのでしょう。

鄭渾の灌漑工事が成功した事で、この地の収穫量は飛躍的に上がり、田地の面積が毎年のように増大しました。

生産力が大幅に向上した事で、租税の収入も倍になったと記録されています。

鄭渾のお陰で民衆は様々な利益を得る事になり、鄭渾の功績を石に刻み堤防は「鄭陂」と呼ばれる様になった話があります。

鄭陂と呼ばれる辺りは、鄭渾の治水がかなり上手くいった証なのでしょう。

山陽郡・魏郡太守

鄭渾は山陽郡や魏郡の太守となりますが、やり方は陽平郡と沛郡の太守時代に倣ったとされています。

ここで鄭渾は住民たちが、材木の不足に苦しんでいる事を知ります。

鄭渾は楡(にれ)を植え籬(まがき)とし、民たちに五本の果樹を余分に植える事を義務化しました。

鄭渾の考えは上手くいき楡は全て籬となり、五本の果樹は豊かに実ったとあります。

魏郡の境界に入ると、村落は一つにまとまり整っており、民衆は裕福となり物資に恵まれていたとあります。

この時には魏は曹叡の時代になっており、曹叡は鄭渾に詔勅を下し褒め称え天下に知らせたとあります。

鄭渾の名は魏国内で知れ渡る事になったのでしょう。

鄭渾は将作大匠に昇進しました。

鄭渾の人物像

正史三国志の鄭渾伝に、鄭渾に関する人柄に関しては、次の様に記載されています。

正史三国志・鄭渾伝より

鄭渾は清潔で自らを飾る事もなく、公事を中心に置いていた。

それ故に、妻子は飢えとこごえから逃れる事が出来なかった。

鄭渾は仕事を中心としており、蓄財に励む事が無かったのでしょう。

それ故に、功績を挙げ名は世間に通っていたのかも知れませんが、家にはお金が無かった様に思います。

鄭渾はこれまで見て来たように、数多くの実績を挙げて多くの民衆から慕われ「鄭」の字を付ける者が多かったり、鄭陂の様に偉業を称えられた話があります。

これらの事業を達成する為に、自分の財産を放出してしまった部分もあり、それ故に家にはお金が無かったのでしょう。

鄭渾ですが、どの様な最後を迎えたのかは記録がなく分かっていません。

しかし、鄭渾が亡くなると子の鄭崇が郎中に取り立てられており、魏国で鄭渾の功績に報いた結果だと感じました。

鄭渾の能力値

三国志14統率68武力32知力67政治87魅力82

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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