名前 | 劉渙(りゅうかん) |
生没年 | 不明 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
コメント | 劉曄の兄 |
劉渙は正史三国志に登場する人物であり、劉曄の兄です。
劉渙の父親の劉普の血筋を辿ると、光武帝の子である劉延に行き着く事になります。
劉渙は後漢の霊帝や献帝とは血縁はかなり薄れていますが、名士で王族の連なる人物だとも言えます。
ただし、劉渙の家は貧乏ではなかったにしろ、袁紹や袁術の様な資金力がある勢力では無かったはずです。
劉渙と劉曄の母親は亡くなる時に遺言を残しますが、劉渙は実行する事が出来ず、弟の劉曄が実行しました。
劉渙は劉曄に比べると度胸は無かったと言えるでしょう。
母親の遺言
劉渙が9歳で弟の劉曄が7歳の時に、劉渙と劉曄の母親である脩は病気に苦しむ事になります。
当時は医学が発展しておらず、脩の病気も治らなかったわけです。
後に劉曄が軍勢を預ける劉勲の娘が病気になった時には、華佗が近くにいた事もあり治療されましたが、この時の劉家の近くには治せる様な医者もいなかったのでしょう。
尚、先の記述から劉渙の二つ下の弟が劉曄だった事が分かります。
母親の脩が亡くなる時に、劉渙と劉曄に向かい、次の様に述べました。
脩「父(劉普)の側近は人に取り入るのが巧みであり、悪事を引き起こす性質があります。
父の側近は私が亡くなれば、この家を滅茶苦茶にしてしまうのではないかと心配です。
お前たちが大きくなった時に、父の側近を排除する事が出来るのであれば、私は思い残す事はありません」
劉渙と劉曄の母親である脩は亡くなる時に、父親の側近を取り除く様に願ったわけです。
三国志には時として王異や孫尚香の様な気性の荒い烈女が登場しますが、脩もまた烈女だと言えるでしょう。
劉渙と劉曄は母親の脩から、暗に暗殺を依頼された事になります。
父の側近を暗殺
劉曄伝によれば劉曄が13歳になった時に、兄の劉渙に向かって、次の様に述べました。
劉曄「亡き母上の遺言を実行するべきです」
劉曄は劉渙に母親の遺言に従い、父の悪事をなす側近を殺害しようと持ち掛けたわけです。
この時に劉渙は15歳だったはずです。
しかし、突然の事であり劉渙は腰が引けてしまい、次の様に述べます。
劉渙「どうしてその様な事が出来るのだろうか」
劉渙は劉曄の言葉に対し、難色を示しました。
劉曄は兄の劉渙が実行する事が出来ないと悟ると、自ら奥の部屋に入り父親の側近を殺害してしまいます。
劉曄の行動には劉普も驚きますが、劉普は劉曄の行動を高く評価し、罪に問いませんでした。
劉渙は腰抜けなのか?
劉渙ですが、劉曄に比べると「腰砕け」に思うかも知れません。
劉曄は後に曹操、曹丕、曹叡に仕えて頭角を現しますし、鄭宝を自らの手で暗殺するなど度胸満点です。
それに比べると劉渙は度胸が足りない様に思うかも知れません。
しかし、劉曄はある意味サイコパスな性格をしており、劉渙の方が遥かに人間らしい性格をしているとも言えるでしょう。
尚、劉渙に関しての記録は、劉普の側近の逸話しかなく、劉渙がどの様に亡くなったのかも不明です。