三国志 後漢

蔡遺は告げ口した相手に推挙される

2023年6月28日

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宮下悠史

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名前蔡遺(さいい)
生没年不明
主君孫権

蔡遺は正史三国志の呂蒙伝に名前が見られる人物です。

正史三国志の記述から蔡遺は江夏太守を務めた事が分かっています。

呂蒙伝の記録を見ると、蔡遺は呂蒙に対し告げ口を行ったとあります。

蔡遺はどの様な内容を主君の孫権に対して述べたのかは不明ですが、呂蒙の事を悪く言った事は間違いないでしょう。

しかし、呂蒙は気に掛ける事もせず、逆に蔡遺を優れた人物だと述べて豫章太守に推挙しました。

蔡遺と呂蒙の話は、呂蒙の優れた人間性を示す逸話にもなっています。

江夏太守

正史三国志の呂蒙伝の記述を見ると、蔡遺が江夏太守だった事が分かります。

孫堅時代からの勇将で黄祖討伐や赤壁の戦いなどで活躍した程普が、208年頃に江夏太守になった記録があります。

程普は赤壁の戦い以後に亡くなった事は明らかであり、程普の後任となったのが蔡遺だったのかも知れません。

少なくとも215年までには程普は亡くなっていたと見られ、早ければ210年位には蔡遺は江夏太守となっていたはずです。

尚、魏の江夏太守は文聘であり、文聘が難敵である事を考えれば蔡遺も能力が高いと評価されていたのかも知れません。

因みに、呉では孫策から周瑜が江夏太守の任務を任されたり、程普が江夏太守になっており、名将と呼ばれる人物が江夏太守を務めています。

それを考えれば、蔡遺の江夏太守就任は非常に名誉な事だった可能性もあるはずです。

ただし、蔡遺の江夏太守就任に関しては分からない部分もあり、正確な部分は不明となります。

豫章太守に推挙される

呂蒙伝の記述によると、呂蒙の武曲(私兵)の事で、江夏太守の蔡遺が告げ口をしたとあります。

内容は不明ですが、蔡遺は呂蒙の部下が「法律に反した行いをしている」などと述べたのでしょう。

普通であれば呂蒙は蔡遺に対し嫌な感情を抱くはずですが、呂蒙は蔡遺に対し恨む事はしなかったと言います。

214年頃に豫章太守の顧邵が31歳の若さで亡くなると、孫権は誰を豫章太守にするべきか?と呂蒙に問うと、次の様な答えが返ってきました。

※正史三国志 呂蒙伝より

呂蒙「蔡遺に任せるべきです。蔡遺は職務をしっかりと行う優れた役人であり、蔡遺に豫章太守を任せるべきです」

呂蒙は自分を告げ口した蔡遺を豫章太守を推挙したわけです。

孫権は過去に蔡遺が呂蒙を悪くいった事を覚えており、笑って次の様に述べました。

孫権「其方は祁奚になりたいのか」

祁奚は史記や春秋左氏伝に登場する人物であり、晋の悼公や晋の平公に仕え仇敵を推挙した人物でもあります。

読書家の孫権にしてみれば呂蒙の態度が祁奚と重なる部分もあり、思わず笑ってしまったのでしょう。

さらに言えば、孫権は呂蒙と蒋欽に読書を勧めた「呉下の阿蒙に非ず」の逸話もあり、呂蒙が読書を確実に行っている事を知り、その行動を喜んだのかも知れません。

蔡遺は呂蒙の推挙により、豫章太守に任命されました。

この時に蔡遺が呂蒙の人柄に感服したのか、呂蒙と誼を結んだのかは記録がなく分かっていません。

蔡遺の最後も記録がなく不明としか言いようがありません。

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