三休は京兆出身の金元休、韋休甫、第五文休の三人を指す言葉です。
三休の面々は三国志の天下が3つに分かれる前の、群雄割拠の時代に多く活躍していました。
三休の呼び方の出典は、正史三国志の呂布伝の注釈である典略となります。
呂布伝注釈・典略には金尚の事が書かれてあり、合わせて次の様に記載されています。
※典略より
金尚(金文休)は同じ郡(京兆)の韋休甫や第五文休と共に有名であり三休と呼ばれた
この記述から金元休、韋休甫、第五文休をまとめて三休と呼ばれていた事が分かります。
金元休、韋休甫、第五文休の全員が字に「休」の文字が入る事から、「三休」と名付けられたはずです。
京兆では金元休、韋休甫、第五文休は有名だったかも知れませんが、三国志の馬良や馬謖などの「馬氏の五常」や司馬懿や司馬朗の「司馬の八達」に比べると知名度は低いと言えるでしょう。
それでも、三休の知名度は、李朝、李邵、李邈などの「李氏の三龍」よりは、知名度は高いと感じます。
今回は京兆三休の解説をします。
金元休は忠臣
金元休は三休の中で、最も知名度が高い人物と言えます。
金元休の本名は金尚であり、後漢の朝廷から兗州刺史に任命された人物です。
しかし、金尚は兗州に曹操がいた事で任地に行く事は出来ませんでした。
金尚は袁術の元に身を寄せる事になります。
袁術は皇帝になる野心があり、閻象により一度は取りやめますが、張炯の説に従い皇帝と為り仲王朝を開いてしまいました。
金尚は袁術から大尉の位を打診されますが、断り逃亡しようとしますが、袁術により処刑されています。
しかし、献帝は金尚の忠義を高く評価しており、子の金瑋を郎中に任命しました。
金尚は最後に殺害されてしまいましたが、三休の中では最も実績が分かっている人物だと言えます。
韋休甫は韋端と同一人物?
三休の韋休甫は典略には名前しか書かれておらず分かっていません。
しかし、三輔決録に京兆出身の韋端の字が「甫休」だとする記述があり、韋休甫は韋端の可能性が極めて高いと言えます。
ただし、典略だと「休甫」三輔決録だと「甫休」の違いがあり、どちらが正解なのかは分からない状態です。
韋端ですが、孔融の言葉にもある様に韋端本人よりも、子の韋康や韋誕の方が実績は多いと言えるでしょう。
韋康は人望があり、韋康が馬超の騙し討ちで殺害された時に、部下の趙昂や王異などは敵討ちの為に動いています。
韋康の人望力の裏では、三休と言われた韋休甫の教えがあったのかも知れません。
第五文休は謎過ぎる人物
三休の中で最も謎に包まれているのが、第五分休ではないでしょうか。
第五文休という名前はインパクトがありますが、実情に関しては不明です。
同じく三休の金尚は兗州刺史に任命され、韋端は涼州牧に任命されています。
それらに対し、第五文休は刺史や牧になったのかも不明ですし、どの様な活躍をしたのかも分かっていません。
第五文休は実在した事は確かだと思いますが、三休の中で最も実情が分からない人物だとも言えます。