古代日本 古墳時代 弥生時代 縄文時代

瀬戸内海は古代から重要な航路となっていた。

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宮下悠史

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名前瀬戸内海
コメント古代から重要な航路となっていた。

瀬戸内海の付近ですが、旧石器時代から人々の活動が盛んだった事が分かっています。

ただし、旧石器時代には瀬戸内海に水は無く陸地でした。

(画像:ひろしまWEB博物館

瀬戸内海が内海になるのは縄文時代の初期である1万2千年前だと考えられています。

瀬戸内海は中国地方と四国の間にある海であり、航路となっており重要な地域として発展する事になりました。

北部九州の伊都国や奴国などに大陸の文化などが入って来ると、瀬戸内海を通じて近畿地方に伝わったわけです。

古代日本において一時的に出雲を経由する日本海航路が主流となりますが、最終的には瀬戸内海の航路が古代日本において重要視されています。

稲作が東に伝播

紀元前10世紀頃には、北部九州で水田稲作があった事が分かっています。

日本にはもっと早く稲作があったとも考えられていますが、縄文時代は豊かであり、縄文人達は中々稲作を始めなかった話もあります。

紀元前10世紀の後半になると、北部九州の稲作が瀬戸内海を通じて東に進出する事になります。

古代日本の稲作の伝播で考えれば出雲を経由する日本海ルートもありましたが、最も早いスピードで東に伝播したのが瀬戸内海ルートです。

四国の松山平野や岡山平野などには早い段階で稲作の痕跡が発見されており、紀元前7世紀頃には大阪平野にまで到達しました。

讃岐平野の辺りでは大阪への経由地となっており、坂出市金山産のサヌカイトが石器の石材として、大阪平野にもたらされた事が分かっています。

それでも、九州から稲作が近畿に伝わるまでには300年掛かっており、縄文時代から弥生時代へはゆっくりと移り変わったとも言えるでしょう。

環濠集落と武器

穀物が戦いを引き起こしたり格差が作ってしまった話は有名ですが、紀元前6世紀以降になると、北部九州から瀬戸内海を通り環濠集落の技術や対人用の武器なども伝わりました。

環濠集落は紀元前6世紀から紀元前4世紀に掛けて、瀬戸内海北岸の福山平野や岡山平野に伝わり、四国の讃岐平野にも出現する事になります。

環濠集落や武器が伝わった話を聞くと、戦争が巻き起こったと思うかも知れません。

しかし、瀬戸内海の東に行くに従い環濠の大きさが小さくなる事から、環濠という文化自体は伝わったとも考えられますが、実際には戦争とは無関係だったとも考えられています。

ただし、実際に戦争は起こらなくても、西の方から戦乱の匂いがあり、戦争に備えて環濠集落を造ったとする説もあります。

高地性集落の誕生

瀬戸内海沿岸の地域では北部九州の文化の流入があり、発展していきますが紀元前1世紀頃に苦難に見舞われる事になります。

紀元前1世紀になると気候変動により、冷涼多雨となり稲作に被害が出ました。

当時の日本では稲の品種改良が進んでおらず冷涼多雨の気候により、人々は食糧不足に悩まされる様になります。

こうした中で瀬戸内海周辺に高地性集落が誕生しました。

瀬戸内海周辺では山の山頂に集落が出来ただけではなく、丘陵にも集落が出現するなど、人々は平地以外にも住むようになりました。

高地性集落の出現は戦争に備えたとする見方もありますが、兵庫県芦屋市にある会下山遺跡や四国のカネガ谷遺跡などから中国や朝鮮半島の遺物も見つかっており、高地性集落で交易があったのではないかと考えられる様になりました。

高地性集落で交易が行われる様になった理由は、高い山は目立つ場所であり、ランドマークの役割をしたのではないかともされています。

尚、気候変動による食糧不足は人々に苦しめましたが、この時期に新しい道具や技術が発展した事も分かっており、逆境は人類にとって前進する場面でもあるのでしょう。

当時の瀬戸内海周辺では岡山平野や讃岐平野などの土器など独自色が強く、地域性が強い時代だとも言えるでしょう。

地域ごとの独自の青銅製の祭器も使われており、地域の団結が強くなった時代でもあります。

水田の拡大

紀元前1世紀に始まった気候変動による苦難の時代は、2世紀頃までには終焉を迎え人々の居住域や水田が拡がる様になります。

岡山平野の百間川原尾島遺跡、や大阪平野の池島・福万寺遺跡で水田の拡大が見られています。

水田を効率よく拡大させる為には、鉄の力がどうしても必要だったわけです。

紀元前108年に前漢の武帝が朝鮮半島北部の衛氏朝鮮を滅ぼしました。

前漢が衛氏朝鮮を滅ぼし朝鮮四郡を設置した事で、中国の技術が朝鮮半島南部にも流入する事になります。

紀元前の段階では瀬戸内海ルートに大陸の交易品が多く流入しました。

しかし、紀元後になると瀬戸内海ルートよりも、太平洋側のルートの方が鉄が多く流入するなど発展する事になります。

2世紀や3世紀頃になると古代出雲が大発展する事になるわけです。

北部九州からの交易で瀬戸内海沿岸地域が発展

九州北部の有力者は1世紀から2世紀頃に壱岐国を通じた交易により、朝鮮半島や中国の品々を得る事になります。

日本列島に大陸産のものを流入させるには九州を中継地点とする他に道はなく、必然的に九州が栄えました。

魏志倭人伝にも登場する伊都国や奴国などは北部九州にあると考えられており、交易で財を成したのでしょう。

北部九州の糸島市にある三雲南小路遺跡や福岡平野の那珂遺跡などはこの時代に栄える事になります。

北部九州で得たものが出雲を経由する日本海ルートだけではなく、瀬戸内海ルートでも賑わう事になります。

北部九州を介在しての日本海ルートや瀬戸内海ルートが発展したと言えるでしょう。

太平洋側には山陰道が形成され、瀬戸内海沿岸には山陽道、南海道が形成されました。

鏡の交易

起元後の世界では出雲などは鉄の交易で栄えましたが、瀬戸内海流域では伝統的な青銅器の祭器が姿を消す事になります。

2世紀頃になると瀬戸内海沿岸に墳丘墓が現れる事になります。

吉備の楯築墳丘墓などは注目が集まっています。

この墳丘墓が古墳の前身だと考えられています。

こうした中で中国から斉銅鏡が多く瀬戸内海を通り近畿に伝えられました。

2世紀の中国鏡は瀬戸内海側に多く、2世紀の段階では鉄交易の日本海ルート、青銅鏡の瀬戸内海ルートと言った感じでした。

伊予や吉備、阿波などから見つかる中国鏡は3世紀まで遡るのではないかとする見解もあります。

瀬戸内海沿岸地域の有力者は自らの権威を誇示する為に、鏡を求めて北部九州と繋がる事になります。

中国鏡が瀬戸内海を通り近畿の中央部と繋がりました。

古墳時代の瀬戸内海

古墳の拡がり

大和や河内から古墳や布留式土器が全国に拡がり古墳時代に突入しました。

瀬戸内海沿岸の地域でも古墳が多く造られる事になっています。

瀬戸内海沿岸でみれば近畿に近い方が大規模な古墳が造られる傾向にあり、西に行くに従い古墳が小さくなる傾向にあります。

瀬戸内海沿岸では銅鏃が多く発見されており、銅鏃は近畿の大和王権と軍事協力があったのではないかとも考えられています。

日本海側の出雲では銅鏃が見つかっておらず、瀬戸内海沿岸の地域は大和王権との関係が深い事は間違いないでしょう。

瀬戸内海沿岸は近畿にゆかりを持つ前方後円墳も多く誕生しており、大和王権と密接に関わっていた事は明らかです。

日本海側の出雲では前方後円墳の登場が遅く、瀬戸内海沿岸とは対照的だと言えます。

大型古墳の誕生

古墳時代の中期になると大阪平野で百舌鳥古墳群と古市古墳群が誕生する事になります。

古事記や日本書紀では仁徳天皇や応神天皇の時代となりますが、瀬戸内海沿岸でも大型古墳が造られる事になります。

吉備では古墳の大きさランキングで4位にランクインする造山古墳や10位の作山古墳が誕生しました。

讃岐にも四国最大規模の富田茶臼山古墳が造営されています。

古墳時代の中期になっても、古墳の東高西低は変わらず、瀬戸内海沿岸では相変わらず、吉備などの近畿に近い地域ほど大規模な古墳が造営される傾向にあります。

古墳時代末期の瀬戸内海沿岸

推古天皇陵wiki

瀬戸内海では百舌鳥古墳群や古市古墳群、倭の五王の時代においては近畿との繋がりの深さが確認出来ました。

しかし、越前から継体天皇が迎えられた頃になると、状況は一変します。

瀬戸内海沿岸の吉備や伊予、阿波、讃岐では継体天皇が即位すると大型古墳が造られなくなります。

さらに、継体天皇の陵墓は今城塚古墳だともされていますが、今城塚古墳の特徴である横穴式石室や古墳の形などは東国に多い事が分かっています。

今城塚古墳に近い古墳は吉備の築山古墳がありますが、継体天皇の陵墓との類似が少なく、近畿の勢力と吉備などの瀬戸内海沿岸の勢力の間で、関係が薄れたとも考えられています。

ここから状況が一変するのが欽明天皇の時代であり、吉備のこうもり塚古墳など大型の古墳が再び出来る様になりました。

古墳の造営が盛んになるのは、大和王権と各地の繋がりが強くなった事を現わしています。

近畿中央部では6世紀の末には前方後円墳が造営されなくなり、代わりに終末型古墳と呼ばれる円形や長方形、正方形など多角形の古墳が造られる様になりました。

推古天皇や聖徳太子の飛鳥時代では前方後円墳が造営されなくなり、瀬戸内海沿岸の吉備でも終末型古墳が造営される事になります。

ただし、吉備では出雲と結ぶルートの山間部に終末型古墳が造られています。

吉備の中心部では終末型古墳の造営は鈍く後に国府が設置されている場所ともズレている状態です。

さらに、伊予でも国府が置かれる松山平野に終末型古墳が存在せず、やはり終末型古墳の場所とはズレが生じています。

終末型古墳の場所と国府が置かれる場所に関しては、国府の誘致合戦などがあったとも考えられており、複雑な政治状況があった事が伺えます。

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