名前 | 斯波高経 |
生没年 | 1305ー1367年 |
時代 | 鎌倉時代→南北朝時代 |
一族 | 父:斯波宗氏 母:長井時秀の娘 |
子:家長、氏経、氏頼、義将、義種 | |
コメント | 何度も離反するも執事の後見人となり権力を握る |
斯波高経は足利一門の中でも名門であり、家格の高さは吉良氏と並ぶ程です。
斯波高経は足利尊氏と同年に生まれており、六波羅探題の攻撃など尊氏と行動を共にしました。
足利尊氏が九州に落ち延びた時は、長門に派遣され武士たちを懐柔しています。
新田義貞討伐でも活躍しましたが、観応の擾乱で最初は足利直義に味方したにも関わらず、最後は足利尊氏に乗り換えています。
他にも、足利直冬に与してみたりしており、斯波高経は足利尊氏からは余り信用はされなかった様です。
ただし、足利義詮の時代になると子の斯波義将が管領となり、後見人となり権力を握りました。
しかし、佐々木道誉との対立があり、執事をやめて越前の杣山城に籠りますが、籠城戦の最中に亡くなっています。
斯波高経の誕生
斯波高経は1305年に誕生した事が分かっています。
奇しくも足利尊氏と同じ年に生まれたわけです。
斯波高経の母親は長井時秀の娘となります。
因みに、長井時秀に仕えていた朝倉広景なる人物がおり、後に斯波高経に仕えますが、朝倉広景の子孫が越前の斯波氏を乗っ取る事になります。
斯波氏では足利家時の時代に足利家氏(斯波氏の祖)が後見人として実質的な惣領を務めるなど、足利一門の名門として君臨していました。
尚、斯波高経と子の斯波義将は、斯波の名字で呼んだ同時代資料が見つかっていない状態です。
斯波氏は1265年に尾張守、陸奥国紫波郡を領有しています。
1323年の北条貞時の十三回忌では斯波高経、足利貞氏、吉良貞義と共に参加した事が分かっており、既に北条氏と密接な関係にあった事が分かるはずです。
斯波氏は鎌倉幕府の有力御家人でもありました。
斯波氏は足利一門ではありますが、独立した御家人としても見られていたわけです。
ただし、斯波高経は足利尊氏と共に六波羅探題を攻撃し滅ぼしています。
佐々目憲法の討伐
後醍醐天皇による建武の新政が始まると斯波高経は越前守護に補任されました。
斯波高経は越前を本拠地とし、これ以降の斯波氏は守護家として活動して行く事になります。
1334年に楠木正成が紀伊の佐々目憲法が飯盛山に籠城するも苦戦し、鎮圧する事が出来ませんでした。
ここで後任の討伐軍の大将として斯波高経が選ばれると、見事に鎮圧する事に成功しています。
軍神と言われた楠木正成が倒せなかった相手を斯波高経が倒しており、優れた采配力を持っていたとみる事も出来ます。
ただし、楠木正成が佐々目氏の討伐に出かけている間に、護良親王が失脚しており、何かあったのではないかとも考えられています。
長門へ派遣される
中先代の乱で足利尊氏が建武政権から離脱すると、斯波高経も同じく建武政権から離れました。
足利尊氏は新田義貞を箱根竹ノ下の戦いで破り京都に進撃しますが、北畠顕家らに敗れ九州に落ち延びています。
ただし、足利尊氏はただ単に九州に逃げただけではなく、赤松円心、石橋和義、仁木頼章らを各地に派遣し建武政権からの追撃軍を阻止しています。
斯波高経は長門に派遣され、その地の守備を任されました。
斯波高経の采配力には定評があり、足利尊氏は長門に向かわせる決断をしたのでしょう。
湊川の戦いで活躍
足利尊氏は九州の多々良浜の戦いで菊池武敏を破り勢力を回復させると、九州の守護たちと共に上洛戦争を開始しました。
斯波高経も足利尊氏の上洛軍に合流しています。
梅松論によると足利軍は足利尊氏が総大将となり、部隊を「大手」「山の手」「浜の手」の三部隊に分けたとあります。
この時に大手が尊氏の弟の足利直義、浜の手が九州の少弐頼尚が務め、山の手に任命されたのが斯波高経です。
梅松論の記述を見る限りでは、斯波高経が足利軍の副将格だった事が分かります。
斯波高経は実力もさる事ながら、足利一門としての家格も高く選ばれたのでしょう。
湊川の戦いで斯波高経は楠木正成と新田義貞を分断させる功績を挙げました。
尚、この頃に関東では斯波高経の長子である斯波家長が北畠顕家と何度か戦いますが、最終的には敗れて命を落としています。
越前の平定
後醍醐天皇は足利尊氏により比叡山を包囲されますが、後に和睦し新田義貞は北陸に移りました。
新田義貞の勢力が強大になれば足利氏の脅威であり、越前守護の斯波高経が北陸に派遣されています。
越前の隣国である若狭守護には高経の弟の斯波家兼がなっており、さらに幕府にとって新田義貞は警戒すべき相手であり、石橋和義や高師泰にも支援させました。
こうした甲斐もあり1337年には金ヶ崎城は陥落しました。
金ヶ崎城の戦いでは尊良親王・新田義顕が自害し、恒良親王が捕虜になるなど大戦果を挙げています。
ただし、新田義貞や脇屋義助の反撃があり、一時は苦境に立たされますが、新田義貞が藤島の戦いで戦死し1341年までには越前を平定しました。
斯波氏と北陸
斯波高経は越前守護になっていた事は先に述べましたが、室町幕府では北陸戦線に斯波氏頼も投入しました。
斯波高経と子の斯波氏頼で越前及び若狭の守護となり、現在に福井県の近辺を固めています。
越前の敦賀や若狭の小浜などは北国と京都を結ぶ海路の要衝にもなっており、掌握する事で経済的な利益に繋がる狙いがあったと考えられています。
貿易は莫大な利益を挙げる事が出来る為、室町幕府としても斯波氏としても何としても抑えておきたかったのでしょう。
鬼切と鬼丸
太平記によると斯波高経は新田義貞を倒した時に、鬼切と鬼丸という二振りの太刀を手に入れたと言います。
鬼切は坂上田村麻呂→源満仲→源頼光と伝来した太刀であり、名前の通り鬼を切り滅ぼしたという伝承が残っている太刀です。
それに対し鬼丸は桓武平氏の北条時政→北条高時、北条時行と伝来した太刀であり、鬼切と同様に鬼を滅ぼしたという伝承が残っています。
新田義貞は鬼切と鬼丸の二振りの太刀を所持しており、太平記では源氏嫡流として描かれています。
足利尊氏は斯波高経が鬼切と鬼丸の二振りの太刀を手に入れたと聞くと「鬼切・鬼丸は足利氏の庶流が所持するものではなく、宗家が子孫に伝えるべきもの」とし、上納を迫りました。
しかし、斯波高経は二振りの太刀の引き渡しを拒否し、足利尊氏は怒って斯波高経への恩賞を与えなかった話があります。
太平記ではこれ以降で足利尊氏と斯波高経の間に溝が生じた事になっています。
実際に当時の斯波高経は「足利」を名乗っており、所領も多く足利尊氏の権威を脅かす様な存在でもありました。
室町幕府では外部の南朝との戦いの他にも、内部では家格が高い斯波氏、吉良氏、石橋氏、渋川氏との内なる争いもあったわけです。
実際に新田義貞は足利一門の中ではさほど家格が高いわけではなかったわけですが、足利尊氏と熾烈な戦いを演じており、斯波高経が第二の新田義貞になる可能性もあったと言えるでしょう。
斯波高経と足利直義
越前があらかた平定されると斯波高経は京都に多く在住する様になります。
暦応5年(1342年)には、右馬頭から修理大夫となりました。
足利尊氏は後醍醐天皇への慰霊を込めて天龍寺を造営しますが、斯波高経も協力しています。
摂津国勝尾寺の鳥居建立では足利尊氏、足利直義、石橋和義、吉良満義、吉良定家らと共に金品を寄進しました。
さらに、三条殿・足利直義が京都新熊野社参詣に際しては、斯波高経が宿舎を提供するなどしています。
足利直義と共に長門国二宮・忌宮神社に和歌を奉納するなど、足利直義との交流を深めた様子を伺う事が出来ます。
この頃に斯波高経は四位にまで昇進していました。
幕府の中枢の人物
康永四年(1345年)に天龍寺落慶供養が行われますが、近江の延暦寺が反発しました。
延暦寺では日枝神輿の入洛を画策するなど強硬手段にも出ようとしており、斯波高経が朝廷に参り護衛の任に当たっています。
天龍寺落慶供養では足利尊氏と足利直義だけではなく、斯波高経と吉良満義が牛車を使っており、待遇の良さが目立つ結果となりました。
斯波高経は足利尊氏や直義と共に東寺の梵鐘鋳造の奉加を行った事も分かっており、幕府の中枢にいた事は間違いないでしょう。
観応の擾乱と斯波高経
室町幕府では内部対立が勃発し足利尊氏、足利義詮、高師直の派閥と足利直義、足利直冬の派閥で争う事になります。
高師直により足利直義は一時失脚し、足利尊氏と高師直は足利直冬討伐の為に九州に向けて出陣する事になります。
この時に斯波高経は足利義詮や仁木頼章と共に京都の守備を担当しました。
足利直義が京都を脱出し挙兵すると、斯波高経は八幡にいる足利直義の元に向かう事になります。
観応の擾乱の前半部分で斯波高経は直義方になったと言えるでしょう。
足利直義が京都に入ると斯波高経は洛中守護に任じられ、高師直が北陸に向かったとする噂が流れると、近江国坂本へ向けて出陣しています。
足利直義は打出浜の戦いで勝利し、高師直は殺害されましたが、足利尊氏とは和睦しました。
しかし、尊氏と直義は再び対立があり、直義は北陸を目指す事になります。
直義は越前の金ヶ崎城に入りますが、この辺りは直義と高経が懇意にしていた事に起因しているのでしょう。
ここで畠山国清が尊氏方に帰参し、高経も直義から離脱する事になります。
斯波高経が直義から離れた理由ですが、尊氏と対立したままでは、越前を保つ事が出来ないと考えた為とされています。
斯波高経は足利義詮を補佐する立場となりました。
観応の擾乱では最終的に足利尊氏が勝利し、足利直義は病没しています。
南朝の軍との戦闘
南朝では京都と鎌倉を同時に攻撃する策を立てました。
この時に斯波高経や次男の斯波氏経や三男の斯波氏頼と共に足利義詮に従い京都の南朝の軍を攻撃しています。
斯波高経は一族を率いて足利尊氏や義詮に協力しますが、目立った成果を挙げる事が出来ませんでした。
斯波高経の行動が低調に終わってしまった理由は、尊氏や義詮から信任されていなかったからだとされています。
幕府への敵対と帰参
文和四年(1355年)に足利直冬が南朝の武将となり、山名時氏と共に上洛軍を起こしました。
山名時氏は山陰から京都を攻撃したわけです。
斯波氏頼は直冬に呼応し入京し、斯波高経は直冬に味方し入京を果たしました。
足利直冬が文和東寺合戦に敗れて西国に戻ると、斯波高経も越前に戻る事になります。
この時に斯波高経は本国である越前に戻り、直冬方となっていました。
斯波高経は武家方から去る事になりましたが、子の斯波氏経は足利尊氏に味方し越前守護に任命されています。
この時の斯波氏は一族で分裂していたと言えるでしょう。
室町幕府に残った斯波氏経ですが、斯波一族が分裂し弱体化する事を危惧し、斯波高経に幕府復帰を呼びかけました。
これを受けて1356年になると斯波高経や氏頼は幕府に帰参しました。
斯波氏と細川氏の対立
斯波高経は室町幕府の一員に戻りましたが、足利尊氏は当然ながら斯波高経を信頼してはいませんでした。
こうした事情もあり、斯波高経は幕府内では思った様な活動を行う事が出来ない状態が続きます。
延文2年に細川清氏が越前守護を望みました。
足利尊氏は斯波高経よりも細川清氏を信頼していたはずですが、斯波氏は一族の名門であり、勢力は大きかった事を危惧し、細川清氏の越前守護就任を認める事は無かったわけです。
越前守護が認められなかった細川清氏は阿波に出奔してしまいますが、斯波高経にとってみれば細川氏に対して嫌悪感が残る結果となった事でしょう。
厳しい状況
1358年に足利尊氏が亡くなり足利義詮が室町幕府の二代目の征夷大将軍になると、仁木頼章が引退し細川清氏が執事となります。
足利義詮や細川清氏は斯波高経を重用せず、ここでの斯波高経の活動は低調でした。
1360年に斯波高経の次男である斯波氏頼が鎮西管領に就任しています。
斯波氏頼の妻は佐々木道誉の娘であり、斯波高経と協力し細川清氏と対抗する佐々木道誉の狙いがあったともされています。
尚、斯波氏経は九州に入り豊後の大友氏時を頼りますが、島津貞久に不信感を抱かれるなどし、1年数カ月で九州を出る事になりました。
斯波高経にとって、この時期は厳しい状況が続いたわけです。
斯波高経に追い風が吹く
足利義詮は細川清氏を執事としていましたが、敵を多く造り過ぎた事で細川清氏は失脚しました。
これが康安の政変と呼ばれています。
尚、斯波高経はそもそも細川清氏を嫌っていたとも考えられており、細川清氏排除の計画に加担していたとされています。
細川清氏は南朝に降り石塔頼房や楠木正儀と共に京都に侵攻しました。
足利義詮は後光厳天皇らと共に近江に避難し、斯波高経は子の斯波氏頼らと共に細川清氏を攻撃しています。
細川清氏は勇将ではありましたが、京都は守備に向かず敗退しました。
義詮は斯波高経の活躍もあり、京都を奪還する事が出来たわけです。
健安二年(1362年)に義詮の腫物平癒祈願の為に、青蓮院尊道法親王が十楽院で冥道供を修めました。
その際に斯波高経は修法の準備を執り行っており、斯波義将は義詮の代官として出席しています。
尊道法親王は斯波高経を「管領の器なり」と高く評価しました。
斯波高経は足利義詮の時代になると、復調を見せる様になっていったわけです。
斯波義将の後見人
足利義詮は足利一門で家格も高く名門である斯波高経を執事とすれば、幕府に利益があると考えたわけです。
執事というには足利氏の家来がなる役職であり、名門意識が強い斯波高経は断りますが、足利義詮は粘り強く交渉を続けました。
義詮の熱心な説得により斯波高経は、子の斯波義将が管領になる事で了承しています。
過去に斯波家長が関東執事や奥州総大将になった例もあり「自分は管領にはなりたくはないが、子ならOK」と考えたのでしょう。
斯波高経は四男の斯波義将を管領としたわけですが、長男の斯波家長は既に没しており、次男の斯波氏経は既に鎮西管領となっており、三男の斯波氏頼は佐々木道誉の娘婿ではありましたが、斯波高経は「起用でない」として、管領になるのを退けています。
ただし、斯波高経は氏頼を管領にしなかった事で、佐々木道誉の不満を募らせたはずです。
斯波義将はまだまだ子供であり、管領の職務を行ったのは後見人の斯波高経です。
尚、斯波高経が実質的な管領だった1363年に中国地方の大勢力である大内弘世や山名時氏が南朝から北朝に鞍替えしました。
斯波一族を重用
斯波高経は斯波義将の補佐をする事になりますが、管領としての職務は執事としての発行文書が少ない事から低調だったと考えられています。
斯波高経は五男の斯波義種を侍所頭人及び山城、若狭守護とし、斯波氏経の嫡男である斯波義高を引付頭人としました。
さらに、自ら越中守護となり、義種が幼かった事もあり、斯波高経がいずれも実権を握っています。
斯波高経は一族で幕府の要職を固めました。
斯波氏経が九州で失敗し京都に戻り出家してしまうと、立場を危うくしていく事になります。
幕府内での対立
貞治二年(1363年)に斯波高経は石橋和義や佐々木道誉との対立に至りました。
ここでの対立で斯波高経は石橋和義の若狭守護を解任し、自ら若狭守護に就任しています。
この時に斯波氏の一族で越前、若狭、越中などの守護をしており、北陸に一大勢力を築く段階に入っていました。
しかし、斯波高経に対する反発も強く1366年に足利義詮は斯波高経への追討を決意する事になります。
義詮が斯波高経の排除をした背景には、佐々木道誉や赤松則祐の讒言があったと考えられています。
こうした中で斯波高経は斯波高経、義将、義種らと邸宅を燃やし北陸に向かいました。
この時点で斯波一族の越前や若狭、越中などの守護は全て解任されてしまったわけです。
斯波高経の最後
斯波高経は越前の杣山城に籠城し幕府軍と戦う事になります。
この時の斯波高経は幕府に反旗を翻しましたが、細川清氏の様に南朝に降るような事はしなかった様です。
歴史は繰り返すが如く斯波高経は新田義貞が足利尊氏に抵抗した様に、北陸で粘り強く戦う構えを見せています。
しかし、斯波高経は既に60歳を超えており、年齢的にも籠城戦は苦しかったはずであり、1367年に陣中で没しています。
この時の斯波高経は63歳だったと伝わっています。
斯波高経が亡くなると斯波義将は上洛し、足利義詮に許され戦いは終焉しました。
足利義詮は細川頼之を管領とし、義詮が亡くなると足利義満を細川頼之が補佐する体制となります。
斯波高経の動画
斯波高経のゆっくり解説動画となっております。
この記事及び動画は南北朝武将列伝北朝編(戎光祥出版)、室町幕府全将軍・管領列伝(星海社新書)をベースに作成しました。