
| 名前 | 秦の簡公 |
| 別名 | 悼子 |
| 時代 | 生年不明ー紀元前406年 |
| 在位 | 紀元前414年ー紀元前406年 |
| 一族 | 父:懐公 兄弟:昭子 子:敬公 |
| コメント | 国君専制を強めた |
秦の霊公が亡くなると、子の献公は立たず、霊公の叔父である簡公が立ちました。
秦の簡公の時代は、魏の文侯の時代でもあり、呉起が秦方面を担当し勢力拡大を目指した時代でもあります。
秦の簡公は軍事面では魏に対抗するのは難しかったわけですが、国内の統治機構を整備するなど画期的な改革を行った君主でもあります。
外敵を利用して、国君専制を強めた君主だと見る事も出来るはずです。
秦の簡公の即位
秦の簡公は秦の霊公が亡くなると、子の献公に代わり秦公となりました。
一般的には秦の献公は年若く、秦の簡公が即位した事になっています。
当時の魏には文侯がおり、西方への進出を目指し秦を圧迫していました。
こうした中で、秦の群臣らは年少の献公よりも、成人して政治を行える秦の簡公がよいとしたのでしょう。
秦では簡公の指導力に期待を寄せて、父子相続を断念してまで、簡公を選んだと考えられています。
それと同時に、秦では危機感があったのではないでしょうか。
秦の簡公と苦難
秦の簡公の時代に魏の文侯の配下には、呉起がおり河西方面を担当しました。
これが秦にとって脅威となります。
紀元前413年に秦は魏に鄭で敗れました。
さらに、翌年である紀元前412年には、繁龐を魏の子撃に陥落させられています。
魏は紀元前409年に臨晋・元里に築城し、翌年の紀元前408年には鄭に侵攻し洛陰、合陽に築城を行いました。
史記の六国年表にも書かれていますが、秦の簡公にとっては苦難の時代が訪れたと言えそうです。
秦は洛水の以西に後退し、紀元前408年に洛水の西岸を要塞化し、重泉に築城しました。
秦の簡公の改革
話は前後しますが、秦の簡公の6年(紀元前409年)に「令して、初めて役人に剣を帯びさせた」とあります。
史記の記述は簡略であり何なのか分かりにくいですが、秦の簡公は支配者層の身分標識である帯剣を「吏」に許し、支配者層としての身分的な待遇を与えた措置だと考えられています。
吏は秦の簡公と関係を取り結ぶ事で、一定の社会的な地位を獲得しました。
秦の簡公は吏を任用する事で、世族や公子の影響力を削ぎ、国君専制を強めたと言えるでしょう。
史記の六国年表によると、紀元前408年には「初祖禾」とする記述があります。
秦の簡公は新たなる統治機構の構築を目指し、土地に対して新たに租税を課した事になるのでしょう。
秦の簡公は吏に支払う給料も必要であり、財源を確保し政権の安定性を志しました。
秦の簡公の最後
史記の秦本紀によると、秦の簡公はその15年に世を去った事が記録されています。
史記の記録を見れば、紀元前400年に亡くなった事になるのでしょう。
史記だと簡公の子の恵公が後継者になったと記録されています。
ただし、史記では秦の敬公の記述が抜けており、実際には紀元前406年に世を去ったと考えられています。
魏の攻勢は強まりますが、秦の簡公が築いた統治システムで対抗する事になります。