春秋戦国時代

呉起は軍事・政治に活躍した生涯無敗の将軍

2022年9月2日

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宮下悠史

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名前呉起(ごき)
生没年紀元前440年ー紀元前381年
時代春秋戦国時代
勢力魯→
コメント政治・軍事に活躍した無敗の名将

呉起は戦国時代の初期に魯やで活躍した人物です。

呉起は孫武孫臏と並び、兵法家としても有名で孫呉の兵法と呼ばれたりもします。

呉起の生涯の戦績は64勝無敗だと言われ、春秋戦国時代でも屈指の名将だと言えます。

しかし、呉起の才能は軍事だけに留まらず、楚では宰相として多いに国を富ませました。

呉起は諸子百家の中では兵法家に分類される事が多いですが、楚では法家の改革を実行しており、商鞅韓非子李斯などに近い考えを持っていたのでしょう。

呉起の性格は妻を殺害したなどの苛烈な部分があったと思えば、吮疽之仁では部下を非常に思いやった話があります。

呉起の性格はサイコパスにも見え、難解でもあると言えるでしょう。

尚、呉起の最期は楚の貴族たちに恨まれた事で悲惨なものとなっています。

呉起は改革者ではありますが、終わりを全うする事が出来ませんでした。

呉子なる書物がありますが、の文侯や武侯との対談形式で話が語られてはいますが、どこまで呉起と関係があったのかは不明です。

現在、春秋戦国時代の末期を漫画にしたキングダムが人気ですが、呉起のストーリーは面白みがなり、スピンオフ企画などで採用される可能性もある様に思います。

最初の挫折

史記に若かりし頃の呉起が、どの様な人物だったのか記録されています。

史記によれば呉起は衛の出身であり、用兵の術を好んだとあります。

呉起の出身地である衛の国は、周の文王の子である康叔を始祖とし、周の東遷では衛の武公が活躍するなど歴史ある国でした。

しかし、呉起の生まれた時代には弱小国になり果てており、呉起自身も衛に仕えようとは思わなかったのでしょう。

呉起の家は比較的裕福だったと考えられており、呉起自身も出世欲が高かった事もあり、仕官を望んだ話があります。

しかし、呉起の才能を認める者はおらず、呉起は財産を使い果たしてしまいました。

これが呉起の最初の挫折だった様に思います。

呉起は郷里の衛に戻ると、呉起を馬鹿にした連中がいた事で、呉起は30人を斬り殺した話があります。

呉起が笑われただけで、30人もの人を殺害してしまったのは、呉起のプライドの高さと苛烈さが分かる逸話であり、それと同時に呉起の身体能力の高さが分かるはずです。

呉起は魏で将軍となった時に、自分の食料は自分で持つなど、兵卒と同じ生活をした話があり、体力には自信があったのでしょう。

呉起は人を殺めてしまった事で、衛にいられなくなり魯の国に向かう事になります。

呉起は衛を出る時に、自分の母親に次の様に述べました。

呉起「私は大臣や宰相にならず、この地の土を踏む事はない」

呉起は母親に立派な身分の人になるまで、衛には帰って来ないと宣言したわけです。

因みに、戦国時代の合従の祖である蘇秦も仕官先が見つからなかった話もあり、この時代は能力があっても仕官出来ない事が多々あったのでしょう。

蘇秦は挫折した後に、揣摩の述を身につけ大宰相となりますが、呉起も挫折の後に何かしらの弁論術を身に着けた様に思います。

曾子の弟子となる

衛を出立した呉起は曾子の門を叩く事になります。

史記には曾子と書かれているだけですが、一般的には孔子の主要な弟子の一人である曾参か、子の曾申のどちらかに学んだと考えられています。

呉起はで宰相になった時は法家の行動を取っているのに、儒家の教えを学んでいた事になります。

同様に韓非子李斯も法家に属しますが、性悪説で有名な儒家の荀子に学びました。

儒家に対する反発心が呉起、韓非子、李斯にはあったのかも知れません。

呉起は儒家の教えを学びますが、衛にいた呉起の母親が亡くなってしまいます。

呉起は母親に述べた「大臣になるまで郷里には帰らない」の言葉を重視し、衛に帰ろうとはしませんでした。

この行動が問題視されます。

曾参は孝行を基本とした人物であり、呉起の行動は薄情だと述べ、呉起は破門にされてしまいました。

曾参にとってみれば、親の葬儀にも出席しようとしない呉起は「とんでもない奴」とみなしたのでしょう。

破門にされた呉起ですが、魯に行き兵法を学んだと史記にあります。

呉起は鬼谷子に学んだのではないか?とする説もありますが、史記には誰から兵法を学んだのか記載がありません。

しかし、呉起にとって兵法は学びが大きかったと考える事が出来ます。

尚、曾参は魯にいた人物であり、それを考えると呉起は魯で兵法を学んだのではなく、斉で兵法を学んだと考える人もいます。

呉起の妻は斉の人だった話もあり、斉で兵法を学んだ事は十分に考えられます。

因みに、呉起の妻の父親は斉の大夫である田居だったとする話も伝わっています。

魯の将軍

兵法を覚えた呉起ですが、公儀休に能力を認められ魯の穆公に仕える事になります。

史記では魯の君主に仕えた事になっていますが、韓非子では魯の有力貴族である季孫子に仕えたとあり、どちらが正しいのかは不明です。

魯では紀元前412年に斉に攻撃され、公儀休の推薦もあり、将軍を呉起に任用しようと考えました。

しかし、呉起の妻が斉の田居の娘であった事から、斉に内通する事を問題視されます。

史記によれば呉起は妻を殺害し、魯に対し忠誠を示した上で将軍となり斉と戦った話があります。

妻を殺害した話は損人利己という故事成語にもなっている状態です。

ただし、韓非子では呉起は妻と離縁しただけであり、殺害したとする話はありません。

どちらにしろ、呉起は魯の将軍となる為に、妻と別れる選択をしたと言う事は事実の様です。

呉起は魯の将軍となり斉軍と戦いますが、呉起は見事に斉軍を破りました。

小国の魯が大国の斉を破った事で、呉起は重用されるかに思われましたが、呉起の人間性を問題視した者がおり、讒言により呉起は魯を離れる事になります。

呉起にしても三桓と呼ばれる大臣が大きな権力を持つ小国の魯よりも、もっと大きな舞台で活躍したいという願望もあったのでしょう。

魏に仕える

呉起は魏の文侯が賢明だという話を聞き、に向かいました。

呉子の記述によれば、呉起は儒者の服装で魏の文侯と面会した話があります。

この時の魏の文侯は李克に「呉起とはどの様な人物なのか」と問うと、里克は次の様に答えました。

李克「呉起は貪欲で好色ですが、用兵においては、司馬穰苴も及びません」

司馬穰苴は斉の景公の時代に宰相の晏嬰と共に斉を支えた名将です。

李克は呉起の人間性を問題視しながらも、用兵の術を高く評価しました。

魏の文侯は李克の言葉を受け、呉起を任用する事とします。

魏の文侯は呉起を将軍に任命し、を攻撃させると5つの城を落とした話があります。

尚、魏の文侯の時代は李克、魏成子、翟璜、西門豹楽羊と優秀な人材が多くいた事が分かっています。

魏の文侯は呉起の働きを認め西河の太守に任命し、秦やに備えさせました。

因みに、呉起は魏の文侯の師となった子夏に、政治手腕を学んだとも考えられています。

武卒制

呉起はでは武卒制と呼ばれる少数精鋭主義の、軍事制度を確立させたとも言われています。

呉起は兵士の待遇をよくし、優秀な兵士を多く集め訓練をしっかりと施しました。

武卒制により作り上げた呉起の軍は非常に強く、時には10倍の秦軍を破った話もあります

史記によれば、呉起は将軍になっても最下級の兵士と衣食を同じにしたとあります。

呉起は将軍にも関わらず、服装や食料は最下級の兵士に合わせました。

さらに寝る時も寝室を設置せず、車馬に乗らず兵士達と苦労を分かちあったとあります。

兵士が病気に掛かった時は、膿を自ら吸うなど吮疽之仁と呼ばれる逸話も残しました。

呉起の兵士に対する態度は、前漢の名将・霍去病などと比べると対照的です。

楚漢戦争の名将である韓信も、兵士を日頃から面倒を見なかった話があり、呉起の態度とは真逆だと言えます。

呉起は貴族に恨まれたり、30人を殺害するなど苛烈な面が見受けられますが、兵士に対しては温情を示した事になるでしょう。

威張らず兵士を大切に扱う呉起の姿は、名将としての資質は十分だと言えます。

尚、秦の名将白起も兵に対しては優しかった話もあり、この辺りは共通点でもあります。

徳の大切さを説く

魏の文侯が亡くなると、魏の武侯が後継者となりますが、呉起は引き続きに仕える事になります。

魏の武侯は西河に行った時に、船を浮かべ中流で呉起に次の様に述べています。

魏の武侯「何と美しい場所であろう。この険阻な山河の地形が魏国の宝である」

魏の武侯は山々の美しさと、険阻な地形に見惚れてしまい口に出してしまったのでしょう。

しかし、呉起は魏の武侯に次の様に述べ諫めています。

魏の武侯「国の宝とすべきは君主の徳であり、山河の険阻さを頼るべきではありません。

古代にあった三苗の国は、洞庭が左にあり、鄱陽を右とし、要害の地にありましたが、君主の徳が低かった事で禹に滅ぼされました。

夏の桀王も河・済を左とし、右には泰山と華山があり、南には伊闕、北には羊腸がありましたが、政治が不仁だった事で、殷の湯王に放逐されています。

殷の紂王がいた国は、孟門が左にあり、右には太山山脈、北に常山、南には黄河が流れていましたが、不徳な政治を行い周の武王に殺害されています。

これを見るに、国の宝は君主の徳にあり、険要にない事が分かるはずです。

君主が徳を治めないのであれば、この船に乗っている人々も皆が敵国の人になるでしょう」

呉起は魏の武侯に険阻な地形よりも君主の行いが大事だと伝えた事になります。

魏の武侯も呉起の言葉に納得しました。

これが船中敵国の故事成語にもなっています。

魏の武侯は呉起の諫言を聞く耳を持っていた事が分かります。

尚、三苗は五帝の時代に名前が登場する伝説とも言える民族であり、夏の桀王や殷の紂王は伝説的な暴君として名が通っており、夏王朝の禹、殷の湯王、周の武王は聖王とされています。

河西の戦い

魏の武侯の時代に呉起が秦軍と戦った話があります。

これが河西の戦いです。

魏の武侯は秦の大軍がやってくる事を知ると、呉起にどの様に対処すればいいのか尋ねました。

呉起は「手柄を立てた事がない五万人を動員して自分が指揮をしたい」と述べます。

呉起は精鋭ではなく弱兵を率いて秦軍と戦おうとしたわけです。

魏の武侯が理由を尋ねると、呉起は次の様に答えました。

呉起「追い詰められた一人の賊が広野に逃げ込んだ所を想像してみてください。

この時に千人の兵士が賊を追いかけたとしても、広野で恐れるのは追手である兵士の方です。

私が五万人の兵士を追い詰められた賊の様にする事が出来れば、必ずや勝利を得る事が出来ます」

魏の武侯は呉起の言葉を信じ、5万の兵士と五百台の戦車、三千の騎兵を与えました。

軍は兵数では秦軍に劣りましたが、手柄を求めた兵士達が奮闘し、秦軍を大破しています。

呉起の話は簡略ですが、信賞必罰がしっかりしていた事や、兵士を死地に追い込み勝利を得たと読み解く事が出来ます。

呉起も韓信の様な背水の陣に近い様な戦法を取ったのかも知れません。

呉起がいた事で魏の西河の支配は盤石だったと言えるでしょう。

戦国時代の後期には魏は秦軍に次々に領地を奪われてしまいますが、この時代は秦に対し優勢に事を進めていました。

呉起の諫言

魏の武侯は大臣らと会議を開きますが、魏の武侯よりも優れた意見を持つ者がいなかった話があります。

魏の武侯は自分よりも優れた意見を言う者がいなかった事で、魏の武侯は得意満面だったわけです。

魏の武侯の様子を見た呉起は、次の様に述べています。

呉起「過去に楚の荘王は臣下達と会議を開き、自分よりも優れた意見を出す者がいなかった事がありました。

この時の楚の荘王は落胆してしまい「自分よりも優れた家臣がいない」と嘆いた話があります。

これでは楚の将来は危ういのではないか?と述べたのです。

今、我が主は楚の荘王が憂えた事を喜んでいます。

私は危惧の念を抱かざるを得ません」

呉起の言葉を聞いた魏の武侯は多いに恥じ入ったと伝わっています。

呉起は自分の主君であっても過ちがあれば、口に出して容赦なく諫める性格だったのでしょう。

後に、魏の武侯と呉起の間に隙が出来る事になりますが、呉起のこうした直情的な性格も合わさっての事なのでしょう。

尚、魏の武侯の時代に呉起は魏軍を率いて斉の霊丘を攻めた事があり、呉起は西河の太守の座を降り中央に入り、軍を率いて東方のと戦ったと考えられています。

春秋五覇の一人である楚の荘王を使い魏の武侯を諫めた時の逸話は、呉起が魏の中央政府に入ってからの事だったのでしょう。

魏を去り楚に移る

に宰相が置かれる事になると、呉起ではなく田文が選ばれています。

呉起は納得がいかずに、田文と功績に関して問答を行いますが、結局は田文が宰相になる事に納得しました。

しかし、田文が亡くなると魏の公主を娶った公叔が宰相となります。

公叔は下僕の進言に従い、夫人に自分を罵る姿を呉起に見せた上で、魏の武侯に呉起に一族の者を降嫁する様に進言しました。

呉起は公叔の妻の態度を見ていた事で、魏の武侯との縁談を断わってしまい、これにより魏の武侯は呉起の事を信用しなくなります。

呉起は身の危険を感じ、に亡命する事になります。

尚、呉起に奸計を用いた公叔は、魏の恵王の時代に宰相になった公叔座と同一人物だとされる場合もあります。

公叔座は魏の恵王の時代に戦いで勝利した理由を「呉起の軍制のお陰」と語っており、それが真実であれば呉起の実力は政敵であっても認めていた事になるでしょう。

因みに、公叔座の食客には、秦の孝公の元で宰相として大改革を実行した商鞅がいた話があります。

呉起が魏を去ったのは、魏の凋落の始まりとして捉えられる事も多いです。

魏では商鞅が去り、楽毅も魏からに移った話もあり、歴史的な逸材を逃す国に代わってしまった事にもなるでしょう。

因みに、公叔の下僕が呉起の性格を「節操廉直」だと述べ、李克が「貪欲好色」と答えたのとは、正反対の意見を述べた話があります。

呉起は魏の最初と最後では考え方が変わって来たのか、どちらかが間違っている可能性もあるはずです。

尚、呉起が魏を出奔したのは紀元前387年の事だと伝わっています。

この年は秦の恵公、趙の武侯、韓の烈侯が亡くなった年でもあります。

楚の宰相となる

呉起はに亡命しますが、楚の悼王は呉起の賢明さを知っており、楚の令尹に任命しました。

令尹は宰相と同じであり、呉起は楚に移っただけで位人身を極めたわけです。

楚の悼王は楚国の改革を欲しており、呉起の様な人物を望んでいたのでしょう。

呉起は軍事だけではなく、政治家としても手腕を発揮する事になります。

楚の悼王の後ろ盾を得た呉起は改革に乗り出しました。

ここから先の呉起は法家としての片鱗を見せます。

呉起は楚の法律を徹底させ、命令を遵守する体制を作り、不要な官位を廃しました。

楚の王家から遠くなってしまった貴族の権利を退け、その財源を兵士に充てる事で軍備を充実させています。

呉起は兵を強くする事を第一とし、合従連衡を説く遊説家を徹底的に論破しました。

楚は呉起の活躍もあり、百越に領土を伸長させ、陳や蔡の小国を併呑し、三晋を撃破したとあります。

三晋はの事であり、呉起は古巣の魏との戦いでも勝利を挙げた事になるでしょう。

魏の武侯にとってみれば、呉起が楚に出奔した事を悔しがったのかも知れません。

さらに、呉起はを破り八面六臂の戦いを見せます。

諸侯は楚の強大さを恐れたとあり、この時の呉起は生涯で一番手腕を発揮した時期だと言ってもよいでしょう。

人生最後の集大成でもあったはずです。

ただし、呉起は様々な改革により、既得権益を奪われてしまった貴族たちには酷く恨まれていました。

呉起の最期

呉起はを強大にしたわけですが、呉起を支援していた楚の悼王が亡くなってしまいます。

呉起が好きな様に出来ていたのは、楚の悼王の後ろ盾があったからであり、ここにおいて貴族たちの恨みが爆発します。

権益を奪われた楚の公族・貴族たちは、呉起の命を狙いました。

呉起は貴族たちが乱を起こした事を知ると、呉起は楚の悼王の遺体の所まで走って逃げています。

楚の公族・貴族らは呉起に向かって弓を射ると、呉起だけではなく楚の悼王の遺体にまで弓が刺さりました。

呉起は楚の悼王の遺体に覆いかぶさる様にして亡くなっています。

呉起は自分を最も信頼してくれた楚の悼王と共に、この世を去ったとも言えるでしょう。

呉起は楚の郢で命を落としました。

呉起はあの世で母親に「一国の宰相になった」と報告したのかも知れません。

楚の悼王が葬られると、楚の粛王が即位しました。

楚の粛王は呉起に矢を射かけ、楚の悼王の遺体に矢が当たった事を問題視します。

楚の粛王は令尹に命じ、呉起を襲った貴族たちを三族まで含め誅殺しました。

呉起に矢を射かけた事で処罰された者は70家を超えたとあります。

一般的には呉起は自分に対し逆らった貴族たちへの復讐の行為が、楚の悼王の遺体の元まで行く事だったとされています。

呉起の最後の行為は「壮絶な復讐」と表現される場合もあります。

楚の粛王は多くの者を粛清しましたが、呉起の改革を取りやめて元に戻してしまい、楚の体制は元に戻ってしまいました。

秦の孝公の元で改革を行った商鞅は殺害されますが、商鞅の変法は残した秦の恵王とは対照的です。

呉起の改革が継続されていれば、戦国七雄の国々を滅ぼし天下統一したのは楚だったのではないか?とも考えられています。

ただし、南方の国から天下を取った国は歴代の中国王朝の中でも、明くらいしかなく地政学的に楚の天下統一は難しいとする説もあります。

呉起の評価

呉起ですが、性格に関しては、かなり難解だとも言えます。

自分を嘲笑した30人を殺害した話もあれば、兵士と行動を共にし多いに可愛がった話もあります。

その為、呉起の性格はサイコパスだったのではないか?とも言われています。

明の朱元璋なども功臣を大量に虐殺したかと思えば、民を慈しむ姿もあり難解な性格をしているとも言えます。

司馬遷は呉起の事を「魏の武侯に説くの大切さを説いたのに、自身がで行った事は刻薄で温情に薄く、それ故に我が身を失った」と評価されています。

司馬遷は孫子呉起列伝の最後の部分で、呉起に関しては残念だったような書き方をしました。

ただし、司馬遷は史記の列伝の中で呉起を孫武孫臏と共に、五番目に記録しており評価は高かったのではないか?とも考えられています。

呉起に関して考えてみると、自分に対し恨みを持つ者がいる事は百も承知でしたが、国を強くする為に行った行為が貴族に恨まれる事になり、仕方がないと考えていた部分もあるはずです。

呉起にしても楚の悼王が亡くなれば、自分の身が危うくなる事は気が付いていたでしょう。

それにも関わらずに、楚から逃げなかったのは楚の悼王に恩義を感じていたからなのかも知れません。

それか、呉起は楚で絶対的な功績を挙げていた事で、自信もあり楚に残った可能性もある様に思います。

呉起は出処進退では失敗したとも言えそうです。

それでも、呉起は戦国時代の前期では范蠡や孫臏と並ぶ名将だったと言えるでしょう。

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