
父親である秦の霊公が亡くなった時に、幼少であった事から即位する事が出来ませんでした。
しかし、好機が回って来て、秦の献公は出公の後継者として立ちました。
秦の献公は殉死を禁止したり、首都を雍から櫟陽に遷すなどの政策を行っています。
他にも、周の太史儋との逸話もあり、老子に出会った可能性もあります。
秦は長く魏と戦っていましたが、秦の献公の時代に石門山の戦いで、6万人を斬首する大戦果を挙げました。
秦の献公の時代から、秦は再び躍進したと言えるでしょう。
秦の献公の即位
秦の霊公が亡くなった時に、秦の献公は秦の君主になれなかったと言います。
史記の記述は簡略で詳細は不明ですが、献公は年齢的に若く政務を行える年齢ではなかった事から、大臣達も献公の即位を望まなかったのではないでしょうか。
霊公の叔父の簡公が後継者となり、簡公の子孫の敬公、恵公、出公と秦君が続きました。
出公の時代の時に、出公は幼少であり、母后が宦官を用いて実権を握る事になります。
秦の庶長らは反発したのか、秦の献公を立てようとし、出公と母后を殺害しました。
史記では深淵に沈めたとも記録しています。
理由は不明ですが、この時の秦の献公は魏の河西にいた事が分かっています。
秦の献公は霊公の子でもあり、後継者になれる立場でもあった事から、危険視され、魏に亡命したとも考えられています。
秦の献公は秦の朝廷に出席していなかったわけであり、いきなり秦の君主として迎えると言われても不安があったのではないでしょうか。
こうした事情もあり、秦の献公は魏の武侯を後ろ盾として、秦に入国したとも考えられています。
魏の武侯が亡くなるまで、秦の献公は魏に手を出しませんでした。
尚、秦の出公が亡くなった年に、晋が河西を奪ったとする記述が史記にあります。
この頃の晋は強勢だったとも続きますが、晋の公室は生き残ってはいますが、権力は殆ど持たず晋ではなく魏と考えた方がよいでしょう。
河西に関しては、秦の献公が秦公になれたお礼として、魏に割譲した可能性もあると感じました。
殉死の禁止
秦の献公の元年は紀元前384年ですが、この年に殉死を禁じました。
献公が即位して最初に行ったのが、殉死の禁止だったのではないでしょうか。
秦の武公の時代に殉死は始り、穆公の時代には殉死者が大量に出て、秦は弱体化したとも考えられています。
殉死は国君の至高性を見出す為のものとも考えられていますが、秦の簡公の時代から国君専権が強化されていました。
秦の君主に権力が集中した事で、殉死の様な君主の至高性を見出すようなものは不要になったのでしょう。
櫟陽に遷都
秦本紀によると、紀元前383年に秦の献公は櫟陽に築城したとあります。
さらに、櫟陽に遷都したとありますが、直ぐに遷都したわけではない様です。
史記の六国年表では紀元前374年に、櫟陽を県としたとあります。
櫟陽を県としたのは、従来は辺境の軍事拠点だった「県」を内地に持ち込んでおり、商鞅の第二次変法に先駆けるものとして評価されています。
それでも、秦の献公の時代に秦は長く首都だった雍を離れ櫟陽を首都としました。
秦が櫟陽を首都としたのは、魏との戦いを想定し、魏に近い櫟陽に遷都したと考えられています。
尚、六国年表によると紀元前379年に蒲、藍田、善明氏に県を設置したとあります。
秦の献公と老子
史記の秦本紀に秦の献公の4年(紀元前382年)正月庚寅の日に、秦の孝公が生まれたとあります。
次に献公11年(紀元前374年)の記述が続き、秦の献公と周の太史儋の話が掲載されています。
太史儋は次の様に述べました。
※史記秦本紀より
周は元々秦と一緒になっていたが、その後別れ、別れて五百年で再び一緒になった。
今後、17年が経過すると、覇王が出るでしょう。
太史儋は予言をしたわけです。
秦で初めて王を名乗った秦の恵文王が356年に誕生しており、太史儋の言葉は秦の恵文王誕生を予見するものでしょうか。
尚、太史儋は老子だったのではないか?とも考えられており、太史儋が老子であれば、秦の献公は老子と会った事になるでしょう。
吉兆
紀元前370年に魏の武侯が亡くなりました。
最終的に、魏の恵王が勝利しますが、この頃から秦と魏の戦いが再開される事になります。
史記の秦本紀に献公の16年(紀元前369年)に「桃の花が冬に開いた」とする記述があります。
秦では長く魏に苦しめられた冬の時代が続いていましたが、春が来るかの様に予見させる出来事が記載されました。
献公の18年(紀元前367年)には「櫟陽に金の雨が降った」とあります。
本当に金の雨が降ったのかは疑問がありますが、吉兆にも見えるわけです。
快進撃
秦の献公の時代から、秦は軍事力で魏を圧倒する様になっていきます。
六国年表によると、紀元前366年に秦は洛陰で韓と魏を破ったと言います。
紀元前364年には、魏と石門山の戦いで、斬首6万人の大戦果を得ました。
石門山は魏の安邑の付近にあります。
秦の献公は攻勢の手を緩めず、紀元前362年に少梁で魏と戦い勝利し、紀元前361年には陝城を包囲しました。
魏の公孫座を捕虜にした話もあります。
公孫座の食客にいたのが、秦で改革を行った商鞅だとされているわけです。
魏の恵王は紀元前361年に、安邑から東方の太梁に首都を遷していました。
洛陰の戦いや石門山の戦い、少梁の戦いの敗北と関係しており、首都を移したと考えられるのではないでしょうか。
一般的には、秦の孝公の時代から秦は躍進した様に思われがちですが、既に秦の献公の時代から、諸国を圧倒する下地はあったと言えるでしょう。
秦の献公の最後
史記の秦本紀によると、秦の献公は24年に卒したとあります。
秦の献公は紀元前361年に亡くなった事になるのでしょう。
秦本紀には秦の献公が亡くなると、21歳の秦の孝公が立ったとあります。
秦は戦国七雄の諸国をリードする存在となって行きました。