名前 | 晋の孝公(姫傾) |
別名 | 晋の桓公(竹書紀年) |
生没年 | 不明 |
時代 | 春秋戦国時代 |
コメント | 首都の新絳から遷都する羽目になった。 |
晋の孝公は春秋戦国時代の人物です。
晋の最後から二番目の君主であり、晋の孝公は魏の武侯や恵王の時代を生きました。
魏では晋の公室を利用し、勢力を拡大させていましたが、魏の武侯が亡くなったタイミングで、魏は内戦状態となりました。
この時に趙や韓は、晋の孝公を屯留に遷したとする記録が竹書紀年に残されています。
竹書紀年の記述を考えると、史記とは違った形の晋の孝公の姿が見えて来るはずです。
史記の晋世家にはありませんが、晋の孝公の時代に晋は首都を新絳から移動させました。
これ以降に晋の権威を利用しようとする者はおらず、晋の新絳からの遷都が晋の滅亡を決定づけたと言えるでしょう。
尚、晋の孝公は史記の本文と六国年表でズレがあり、年表に関しては司馬遷自身に混乱があり、はっきりとしない部分が多いです。
ただし、晋の滅亡は子の静公の時代である紀元前349年であり、少なくとも紀元前349年までには亡くなっていた事は確実でしょう。
史記における晋の孝公の記述
史記の晋世家に晋の孝公の記述があり、次の様になっています。
※史記 晋世家より
烈公はその二十七年に亡くなり、子の孝公頎が立った。
孝公の九年。魏の武侯が始めて立った。
邯鄲を襲い勝たないで去った。
孝公はその十七年に亡くなり、子の静公倶酒が立った。
史記の晋世家は晋の歴史を記録したわけですが、晋の孝公の記述を見る限り、晋の烈公が亡くなると晋の孝公が即位し、晋の孝公が亡くなると、晋の静公が即位したとする記述しか分からないわけです。
史記の記録は極めて簡単であり、この記述だけで晋の孝公を知るのは、難しいと言わざるを得ないでしょう。
晋の孝公の史実
この頃の晋は公室は残っていましたが、超弱小勢力であり、臣下の魏、韓、趙の方が強大な力を持っていました。
魏の文侯や武侯などは晋の正卿となり、晋の公室の権威を利用し、韓や趙に言う事を聞かせていた様な状態です。
晋の孝公の時代に魏の武侯が亡くなりました。
晋の権威を利用して勢力を拡大して来た魏の武侯が亡くなったわけです。
魏の武侯が亡くなると、太子の魏罃(魏の恵王)と魏の公子仲緩が後継者の座を狙って争う事になります。
公子仲緩は趙の援軍を期待して、魏の君主の座を狙いました。
魏は内乱状態に陥りますが、竹書紀年によると、晋の孝公(桓公)を上党にある屯留に遷したとする記録があります。
これが紀元前369年の事だともされています。
竹書紀年をベースに考えれば、晋の孝公は長い間、晋の首都であった新絳から、屯留に遷都した事になるはずです。
竹書紀年を見ると、史記とは違った形の晋の孝公の姿が見えて来ると言えるでしょう。
さらに、史記の趙世家には「趙の成侯の時代に魏・韓と共に晋を分割し、晋君を端氏に封じた」とする記述が存在します。
趙の粛侯の時代に晋の君主が端氏から屯留に遷った記述があるわけです。
これらを総合的に考えると、晋の孝公の時代に趙と韓により、晋の孝公は首都の新絳から出なければならなくなってしまったのは事実なのでしょう。
魏は晋の公室の権威を利用しており、趙と韓は魏に晋の公室の権威を利用されるのを嫌がり、魏が内戦状態になった隙に、晋の孝公を新絳から連れ出し、端氏もしくは屯留に遷したのでしょう。
新絳と魏の本拠地である安邑は近い距離にあり、韓と魏は晋の孝公に新絳にいられては困る状態でもあったわけです。
尚、ここから先の晋では正卿になる者がおらず、静公の時代に晋は滅亡する事になります。
先代:烈公 | 晋の孝公 | 次代:静公 |
※この記事は吉本道雅氏の「中国先秦史の研究」を元に書いております。