春秋戦国時代

秦の康公は晋と報復戦争を何度も行った

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宮下悠史

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名前秦の康公
本名嬴罃
生没年生年不明ー紀元前609年
在位紀元前621年ー紀元前609年
時代春秋戦国時代
一族父:穆公 母:穆姫 子:共公
兄弟:康公、公子弘、簡璧、文嬴、懐嬴、弄玉など
コメント晋と報復しあった。

秦の康公は春秋時代のの君主です。

秦の穆公の後継者になった人物でもあります。

父親の秦の穆公は春秋五覇に数えられる事もあり、「偉大な父親を持つと子は大変」を地で行ったのが秦の康公だったのかも知れません。

さらに、秦の穆公が亡くなった時に、臣下の177人が殉死した話もあり、秦の康公は秦君にはなりましたが、先行きは前途多難だった可能性もあります。

では趙盾の意向もあり、秦の康公は秦にいた公子雍を晋に入れようとするも、穆嬴の意向と趙盾の変心もあり失敗しました。

これ以後に、秦と晋は連年の様に戦う事になります。

令狐の戦い

秦の穆公には40人ほどの子がいましたが、穆公が亡くなると秦の康公が即位しました。

40人の中から秦の康公が後継者に選ばれた理由は、伝わっていません。

秦の穆公が亡くなった年に、晋の襄公も亡くなりました。

晋では襄公の太子として夷皋がいましたが、趙盾を始め晋の大臣たちは「幼少の者が国君になれば晋は纏まらない」と考え、秦の康公に連絡を入れ秦にいた公子雍を晋君に立て様とします。

秦の康公も乗り気になり、重耳を晋に送った時は、兵が少なく郤芮、呂省が禍になったと述べ、多くの兵をつけて公子雍をに出発させました。

趙盾の方でも士会を使者として、に向かわせています。

公子雍が晋の君主になるかに思えましたが、穆嬴が我が子の夷皋を連れて朝廷に出て「晋の襄公の太子を廃してはならない」と訴えかける事になります。

これにより趙盾や大臣らは一転して、夷皋を支持する事になり、秦の康公が送り出した公子雍の集団を令狐で襲撃しました。

令狐の戦いでは、公子雍の集団が敗れ、士会や先蔑は秦に逃れています。

晋では夷皋が立ち、晋の霊公となります。

秦晋の仁義なき戦い

の大臣らに秦の康公は欺かれた事になり、翌年の紀元前619年に晋の武城を攻撃しました。

春秋左氏伝には、秦軍が武城を占拠し、令狐の戦いに報復したとあります。

しかし、晋の方でも黙っておらず、2年後の紀元前617年にの小梁を取りました。

さらに、2年後の紀元前615年には秦が晋を攻撃し、羈馬を占拠し河曲で戦闘が勃発しています。

河曲の戦いでは秦が晋を大破したと伝わっています。

春秋左氏伝には紀元前614年に、晋の霊公が桃林塞を築かせ、これにより秦と晋の戦いは収まりました。

この年に晋の郤缺と魏寿余の意向もあり、士会は晋に戻る事になります。

秦の康公の最後

史記によると、秦の康公は在位12年で亡くなり、秦の共公が立ったとあります。

秦の康公は紀元前609年に世を去った事になるのでしょう。

ただし、秦の康公がどの様な最後だったのかは記録がなく分かっていません。

先代:穆公康公次代:共公

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