
秦の宣公は春秋時代の秦の君主です。
父親の秦の徳公が亡くなると、秦公となりました。
秦の宣公の時代に密に祭壇を築き、晋とは河陽で戦闘を行った記録が残っています。
即位して12年で秦の宣公は亡くなり、子が9名もいましたが、後継者になったのは弟の秦の成公でした。
秦の宣公の即位
秦の宣公は秦の徳公が亡くなると、秦の君主として即位しました。
父親の秦の徳公は35歳で亡くなったと考えられており、秦の宣公は若くして秦君になったのでしょう。
秦の徳公には兄の武公がおり、武公の子に白なる子がいました。
白が後継者にならずに、宣公が後継者になった経緯はよく分かっていません。
史記の秦本紀では秦の宣公の元年(紀元前675年)に、衛と燕が周を討ち、周の恵王を放逐して、王子穨を立てたとあります。
ここでいう燕は北方の燕ではなく、中原にあった南燕を指すと考えられています。
他にも、秦本紀は秦の宣公の3年(紀元前673年)に、鄭と虢が王子穨を殺害し、周の恵王を迎えたとあります。
史記では秦の宣公の時代の周の混乱が記載されました。
尚、周の宣公の時代は西周王朝が崩壊してから100年程が経過しており、諸侯の淘汰が進み秦、晋、楚、斉が他国から抜きんでる国力を有する時代になっていました。
秦の宣公と密畤
史記の秦本紀に、次の記述があります。
※史記秦本紀より
秦の宣公の4年に密畤(みつじ)を作った。
秦の宣公の4年は紀元前672年であり、密畤を作成した事が分かるはずです。
密畤だけでは意味が分からないかも知れませんが、陝西の密の地に祭壇を設けた事だと考えられています。
秦の祭祀が活発になっている様子が伺えます。
さらに、この年に秦は晋と河陽で戦い勝利したとあります。
この頃の晋の君主は献公であり、既に晋では本家と曲沃の内乱は終わっており、国外に目を向ける事が出来る様になったのでしょう。
秦の宣公の最後
秦の宣公は即位後12年で亡くなったと史記に記載されています。
この事から秦の宣公の没年は、紀元前664年になるのでしょう。
秦の宣公は子宝に恵まれ9人の子供がいた事が記録されています。
しかし、後継者になったのは、自らの子ではなく弟の秦の成公でした。