春秋戦国時代

晋の出公は出奔して亡くなった

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宮下悠史

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名前晋の出公
姓・諱姫鑿
生没年生年不明ー紀元前453年
在位紀元前475年ー紀元前453年
時代春秋戦国時代
一族父:定公
コメント出奔して亡くなった。

晋の出公は春秋時代の晋の君主です。

この頃になると、既に六卿の范氏と中行氏は没落しており、では知氏、趙氏魏氏韓氏が主君を凌ぐだけの実力を持っていました。

晋の出公の時代に廩丘を取った記録がありますが、晋の公室が力を盛り返す事は無かったわけです。

最終的に晋の出公は出奔する事になり、最後を迎えました。

廩丘を攻略

春秋左氏伝によると、魯の哀公の24年(紀元前471年)に、晋の出公が斉を攻撃しようと考え、魯に出兵を願う使者を派遣したとあります。

晋の出公の要請に従い魯は臧覇を援軍として軍に合流させました。

晋軍は廩丘を占拠する戦果を挙げますが斉の大夫の萊章は「晋君の地位は低下し、政治は暴虐なのに成果を挙げており、これでは前進できない」と述べた話が残っています。

晋の出公は外征で戦果を挙げても、君主の地位は低下し、政治は宜しくないと述べた事になるでしょう。

尚、晋軍は戦いには勝利しましたが、結局は撤退する事になりました。

紀元前468年には、智瑶が鄭を攻撃した記録が残っています。

晋の出公の最後

史記では廩丘攻略の話は存在せず、晋の出公の17年(紀元前458年)に、正卿である智瑶が范氏、中行氏の領地を分割し、それぞれの領地にしたと書かれています。

智瑶らの行動に怒った晋の出公が斉と魯に告げ、四人の卿を討とうとしたとあります。

しかし、四卿は逆に晋の出公を攻撃し、出公は斉に出奔しますが、途中で亡くなった話になっています。

史記の晋の出公の記述ですが、間違いではないかと考えられる場合が多いです。

竹書紀年の記述では晋の出公の23年(紀元前452年)に、晋の出公がに出奔した話があります。

これを考えると、晋陽の戦いで智瑶を趙襄子が破り、魏桓子と韓康子の三卿で知氏の領地を分割し、晋の出公が憤り楚に出奔したのが原因だと考えられています。

晋の出公としては、楚の力を借り韓・魏・趙の力を打倒して、晋の公室に力を戻したかったのでしょう。

しかし、楚の向かった晋の出公は亡くなり、で晋の哀公(懿公)を擁立したのが実情だと感じました。

さらに言えば、史記の記述では智瑶が范氏と中行氏の領地を没収した事になっていますが、范氏や中行氏が没落したのは、既に何十年も前であり、今さら土地を分配するのはおかしいとも感じました。

それでも、晋の出公は出奔して亡くなったのは同じです。

先代:定公出公次代:哀公

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