
晋の定公は春秋時代の晋の君主です。
紀元前506の召陵の会は、晋が最期に主催した会盟となります。
晋では平公の時代以降に六卿が力をつけていましたが、定公の時代に范氏と中行氏が脱落し、知氏、韓氏、趙氏、魏氏の四卿が残りました。
この時代は呉が強大となり、晋と覇を争うまでに成長しており、晋と呉は黄池の会で盟主の座を争う事になります。
黄池の会では晋や東周王朝が、呉の覇権を認めたとも考えられます。
晋の定公の時代に六卿の范氏や中行氏が没落しますが、晋の公室は勢力を盛り返す事は出来ませんでした。
晋の定公と魯の昭公
春秋左氏伝によると、紀元前511年に晋の定公は軍を動かし、出奔中の魯の昭公を魯に帰還できる様に取り計ろうとしました。
手始めに士鞅の意見もあり、魯の昭公が出奔する原因にもなった季平子を呼びだす事になります。
季平子がやって来ると、智躒が問いただし、季平子と共に魯の昭公がいる乾侯に向かいました。
晋の定公は魯の昭公と季文子が和解し、共に魯に帰る事を望んでいると、智躒は魯の昭公に伝える事になります。
しかし、魯の昭公は従者たちに釘を刺されていた事もあり、季平子を許しておらず、季平子は魯に戻りました。
魯の昭公は翌年に乾侯で亡くなっており、晋の定公の計画は思うようにいかなかったと言えるでしょう。
最後の会盟
春秋左氏伝によると、紀元前506年に劉文公が諸侯を召陵に招集したとあります。
しかし、劉は弱小諸侯であり、召陵を主催したのは、晋の定公だったはずです。
晋の定公が主催する召陵の会では魯の定公、宋の景公、蔡の昭侯、衛の霊公、陳の恵公、鄭の献公、許の君、曹の隠公、莒の君、邾の君、滕の君、薛の君、杞の君、小邾の君、頓の君、胡の君、斉の国夏が来ており、多くの諸侯が集まりました。
参加諸侯を見ると分かりますが、斉の景公は召陵の会に参加しませんでしたが、大臣の国夏を参加させています。
晋の定公が大規模な会盟を主催しましたが、議題は楚への侵攻に対する相談だったわけです。
楚に近い蔡などは、春秋時代では楚が常に脅威となっており、楚を討つ相談をしたという事なのでしょう。
召陵の会では晋の荀寅が蔡の昭侯に賄賂を要求し得られず、士鞅に鮮虞を理由に楚を攻撃しない様にと要請しました。
これにより、楚への出兵は無くなり、皐鼬の盟は結ばれましたが、不発に終わったと言えるでしょう。
晋の定公の紀元前506年の、召陵の会、皐鼬の盟が晋の主宰した最後の会盟となります。
尚、召陵の会に小国の沈が参加せず、晋の定公は蔡に命じて、沈を滅ぼしました。
范氏と趙氏の対立
晋の定公が主催した召陵の会以降に、覇者体制は解体に向かいました。
晋の定公の時代に正卿の士鞅が、中原の諸侯を纏める為に動いていた事が分かっています。
しかし、中原交渉の役割が趙鞅に代わり、宋までもが晋の覇者体制から離脱しました。
こうした事情により士鞅と趙鞅の関係が悪化しますが、晋の定公は上手く抑え込む事が出来なかったのでしょう。
趙鞅は衛に対し軍事行動を起こしたりしましたが、大した成果は上げる事が出来ませんでした。
対衛戦争の苦戦は趙鞅の責任問題となります。
范氏・中行氏の乱
乱の始まり
史記によると晋の定公の15年(紀元前497年)に范氏・中行氏の乱が勃発しました。
事の始まりは、趙鞅が趙午を殺害しようとした事に始まります。
趙午は中行寅と范吉射と仲が良く、范氏・中行氏の支援を当てにし、反対に趙鞅を攻撃しました。
趙鞅は晋陽で籠城し、晋の定公の了承を取り、范氏と中行氏の軍が包囲する事になります。
しかし、荀躒が晋の定公に「乱を始めたものは処罰する」との言葉を持ち出し、趙鞅だけではなく中行寅と范吉射も処罰せねばならないと説きました。
荀躒の説得により、晋の定公は范氏と中行氏を攻撃するのを許す事になります。
荀躒、韓不信、魏侈は晋の定公を奉じて、范氏と中行氏を攻撃しました。
史記では范氏と中行氏は晋に定公を攻撃しますが、晋の定公は撃退したとあります。
この記述だけを見ると、晋の公室にはまだまだ力がある様に思うかも知れませんが、実際には知氏、魏氏、韓氏の軍が范氏と中行氏の軍を打ち破ったと考えられています。
しかし、晋の定公は范氏や中行氏に苦戦し、乱は8年間に渡り継続される事になります。
長引く混乱
晋の定公は范氏と中行氏を攻撃しますが、乱を平定するのに8年もの歳月が掛かりました。
范氏、中行氏の乱が長引いた原因としては、范氏、中行氏を中原の衛や鄭などの諸侯だけではなく、東周王朝までもが支持した為です。
さらに、中行寅と范吉射は最終的に斉に出奔しており、大国の斉も范氏や中行氏を後押ししていたのでしょう。
尚、乱の最中に荀躒が亡くなり、晋の定公は趙鞅を晋の正卿としました。
時間は掛かりましたが、最終的に范氏・中行氏の乱は鎮圧される事になります。
論功行賞
范氏と中行氏の乱が鎮圧されますが、その後に論功行賞が開かれた事は確実でしょう。
ただし、晋の定公がどの様な論功行賞を行ったのかは不明です。
しかし、范氏と中行氏を打倒したのであり、晋の公室にも多少なりとも、領地の拡大はあったのではないかと感じました。
それでも、六卿の生き残りである知氏、韓氏、魏氏、趙氏も多くの地を領有した事でしょう。
黄池の会
呉の勢力が強大となり、紀元前484年には艾陵の戦いで、斉を大いに破りました。
衛、宋、魯とも会合を行っており、この頃の呉が中原進出を考えたのは明らかでしょう。
晋の景公の時代に巫臣を呉に派遣した時代は「楚の抑えとなってくれればいい」位の相手だったはずですが、晋の定公の時代には晋にとっても脅威と呼べる程の勢力に成長していました。
紀元前482年には呉、晋、魯で黄池の会を開く事になります。
晋の定公も当然ながら参加し、東周王朝からは単平公が参加しました。
黄池の会では呉王夫差と晋の定公が中心となり会合が行われ、中原諸国の晋と呉の両方に服属するなどが決められたと考えられています。
史記の晋世家では黄池の会で呉王夫差が盟主になったと書かれており、呉太伯世家では晋の定公が盟主になったと記録されており、どちらが盟主になったのかは、はっきりとしない状態です。
それでも、黄池の会では、東周王朝の単平公が参加しており、呉の覇権を承認したのではないかとも考えられています。
尚、この時の晋の定公は君主としての権威は維持していましたが、知氏、趙氏、魏氏、韓氏が強く、覇者になったとしても物足りない存在でもあった事でしょう。
晋の定公の最後
紀元前476年に趙鞅が亡くなり、知瑶(知伯)が晋の正卿となりました。
趙氏の後継者は趙無恤となります。
この翌年である紀元前475年に、晋の定公が没する事になります。
史記の趙世家では晋の定公が亡くなった時に、趙鞅が三年の喪を一年で止めてしまった話がありますが、既に趙鞅が亡くなっており、この話は事実ではないのでしょう。
晋の定公の後継者として、晋の出公が立ちました。
春秋左氏伝には、晋の定公の最後の記述は存在していません。
尚、黄池の会で晋の定公と盟主の座を争った呉王夫差は、2年後の紀元前473年に越により滅ぼされました。