宋義は項梁の死を予言した事で有名な人物です。
項梁の死後に、楚の懐王は軍を二つに分けて劉邦と宋義の二人を大将としました。
宋義は北の趙へ救援に向かいますが、安陽で軍を46日間も停止させています。
その間に、宋義は息子の宋襄を斉に派遣し、斉の大臣にしようと画策しています。
宋義の行動に不信感を抱いた、項羽により宋義は殺害されて生涯を終わる事になります。
今回は史記にも登場する人物である、宋義がどの様な人物なのか解説します。
個人的には、宋義は政争を始めた事で、目が曇った様にも感じました。
項梁を諫める
始皇帝の死後に、胡亥が二世皇帝として即位すると天下が荒れます。
陳勝呉広の乱が起きますが、陳勝の政権は半年ほどで章邯に滅ぼされました。
こうした中で、江東で挙兵した項梁の勢力が楚の懐王を擁立し、勢力を拡大させます。
項梁の勢力は項羽や劉邦の活躍もあり各地で秦軍を破り、項梁も自ら兵を率いて定陶で章邯の軍を破ったわけです。
項羽や劉邦の軍も順調に成果を挙げ、秦の丞相である李斯の長男である李由も斬首しました。
陳勝も破り名将と呼ばれた章邯を撃破し、各地で楚軍が秦軍を破った事で、項梁の心に驕りの心が見え始めます。
ここで宋義は項梁に、次の様に進言しています。
宋義「例え戦いに勝ったとしても、将が驕り兵が怠ける様になれば意味がありません。
現在の楚軍を見るに、兵士達は戦勝に気をよくして怠惰な心が見え始めています。
秦の章邯は破れたと言えど、秦の増援部隊を得て勢力を回復させております。
これらの事を考えるに、項梁様の事が心配でなりません。」
しかし、この時の項梁は章邯を破ったばかりであり、強気になっていたのか、宋義の言葉を聞かなかったわけです。
項梁としてみれば、いい流れで秦軍を破っているのに、「流れを悪くする様な事を言うな。」と宋義に思った可能性もあるでしょう。
宋義を斉への使者に任命
項梁は宋義を「軍の雰囲気を停滞させる人物」と見たのか、斉への使者として派遣しています。
項梁が宋義を斉への使者に派遣した理由は、斉への出兵の催促でしょう。
項梁は過去に、斉の田栄を助けた事があり、田栄に「共に秦を攻めよう」と述べた事がありました。
しかし、田栄は一族の田仮と対立しており、田仮は項梁の元に逃げたわけです。
田栄は田仮の首を差し出せば兵を出すと言いましたが、項梁は納得しませんでした。
この様な過程があり、項梁は宋義を使者とし、斉への出兵を促そうとした様に思います。
項梁としても、宋義の弁舌の上手さと、楚軍が秦軍に連勝した事で、「今なら斉は出兵に応じるかも知れない。」という期待感もあったのでしょう。
項梁の死を予言
宋義は斉への使者となりますが、途中で斉の使者である高陵君・顕に会います。
宋義は高陵君に「武信君に会いに行くつもりなのか?」と問うと、高陵君は「そうだ。」答えます。
ここで宋義は、高陵君に次の様なアドバイスを送っています。
宋義「私は武信君が必ず敗れると断言する事が出来ます。
あなたがゆっくりと武信君に会いに行けば命は助かりますが、急いでいけば禍に巻き込まれる事でしょう。」
宋義の予想した通り、項梁は章邯に急襲され戦死しました。
高陵君は宋義の意見に耳を傾けた事で、命は無事であったわけです。
宋義が高陵君の命を救ったとも言えます。
宋義が上将軍となる
項梁が思いがけず戦死した事で、項羽、劉邦、呂臣らは前線から兵を引きます。
この時に、楚の懐王は強気にも盱台から、前線に近い彭城に遷都しました。。
斉からの使者である高陵君は、楚の懐王に次の様に述べています。
高陵君「私は楚に来る途中で宋義に会いました。
宋義は武信君(項梁)の軍は必ず敗れると言っており、数日後に宋義が言った通りとなっています。
宋義は武信君が戦う前に敗北を予知しており、兵法を知った者と言わざるを得ません。」
高陵君の言葉を聞いた楚の懐王は、宋義と話してみますが、多いに気に入り上将軍としました。
この時に、楚の懐王は宋義の下で項羽を次将とし、范増を末将としています。
卿子冠軍
宋義は上将軍に任命されると『卿子冠軍』と号した話があります。
卿子冠軍の名前の意味は諸説があります。
卿子冠軍の『卿』は大夫の事を指し、『子』が子男の爵位を言い、『冠軍』が大将を指すとする説があります。
他にも、『卿子』は尊い身分を指す尊称であり、『公子』と同義語だとし、『冠軍』が上将や諸侯の上に立つという意味があるともされています。
しかし、宋義が何故、卿子冠軍と名乗ったのかの正確な部分は分かっていません。
尚、卿子冠軍は「慶子冠軍」と記載される事もあります。
46日間の退陣
楚の懐王は劉邦には関中を目指す様に指示し、宋義には趙の救援に向かった上で関中を目指す様に指示しています。
しかし、宋義は安陽まで来ると、軍を停止してしまい46日間も滞在したわけです。
次将の項羽は戦意があり、宋義に次の様に意見しています。
項羽「儂は秦軍が兵を率いて趙王を包囲していると聞いている。
急いで黄河を渡り軍を北上させ、外から楚軍が攻撃し、内から趙軍が呼応すれば、秦軍に勝つ事が出来るはずである。」
この時点で、趙は秦の正規軍を率いた王離により、落城の危機にありました。
趙歇と張耳は鉅鹿の城で持ちこたえており、陳余ら張敖は兵を集めて戻りますが、圧倒的な秦軍の前に兵を動かす事が出来なかったわけです。
項羽は急いで趙に行かねば、趙が滅亡してしまうと考えたのでしょう。
しかし、宋義は次の様に述べています。
宋義「それは間違っている。手で牛を打てば虻(あぶ)は殺す事が出来るが、牛の中にいる虱(しらみ)を殺す事は出来ない。
今は秦と趙が戦っている。秦が戦いに勝ったとしても、疲弊するはずであるから、我が方は秦の疲れに乗ずるのが最良の策である。
秦が勝たなければ、堂々と兵を率いて西に迎えはよいだけだ。
それを考えれば、秦と趙を戦わせておく事が、何よりの策であろう。
儂は武勇では其方に及ばぬが、座って策略を張り巡らす事に関しては、其方は儂に及ばない。」
宋義は項羽の意見を却下したわけです。
項羽にしてみれば、反秦の為に兵を挙げたにも関わらず、戦おうとしない宋義に対し、歯がゆい思いをした事でしょう。
宋義は項羽と同じ考えを持った者が多いと判断したのか、軍中に次の様な支持を出しています。
宋義「猛きこと虎の如く。悖ること羊の如く。貪ること狼の如く。
凶暴で儂の命令に従わない者は、斬首致す。」
宋義は軍を動かす気は全く無かったわけです。
戦国時代に趙の名将と呼ばれた趙奢は「自分に意見する者は死罪に致す。」と命令した話があります。
趙奢は最後に秦の胡傷を破る大勝利を挙げていますが、この時の宋義にそれだけの策略があったのかは不明です。
さらに言えば、宋義は趙と秦を戦わせ漁夫の利を狙うべきだと述べていますが、漁夫の利で上手く行ったケースは少ないとも指摘されています。
この時の秦軍は強かった事もあり、個人的には趙と協力して秦を倒すと考えた項羽に分がある様に感じました。
宋襄を斉の宰相とする
宋義は斉に息子である宋襄を斉の宰相にする為に派遣する事になります。
この時に、宋義は宋襄を送る為に、無塩まで行き宴会を開いた話があります。
宋義が宋襄を斉に派遣したのは、先に項梁の命令で斉に使者で行った時に、何かしらの話が付いていたのかも知れません。
この時の斉王は田市でしたが、実権は田栄が握り田横が補佐していたはずです。
宋義は斉で項梁が敗れる事を田栄や田横に述べて、何かしらの政治工作を行ったのかも知れません。
それにより、宋義は息子の宋襄を斉の宰相にする事が出来る様になった可能性がある様に思います。
田栄や田横も宋義と斉で話してみて、中々の人物だと思い宋襄が宰相になる事を認めた様に感じました。
ただし、宋襄が斉に行ったとしても、斉での実験は田栄が握り続けた事でしょう。
項羽の見解
宋義は自らの子を斉の大臣にする為に出発させたわけです。
宋義の行動に対し、項羽は次の様に述べています。
項羽「我らは秦を討つために軍を動かしたのである。それにも関わらず宋義は動く気配がない。
今年は凶作であり民は貧しく、士卒は葉に豆を混ぜて食べているが、手持ちの食料は既に底をつきそうである。
それにも関わらず、宋義は大規模な酒宴を開いておる。
今の状態であれば兵を率いて黄河を渡り、趙の食料を得て、趙と力を一つにして秦を攻めるべきだ。
宋義のいう、秦の疲れを待つなどの方法は妄想でしかない。
趙は出来たばかりであり、秦の精兵が攻めれば、趙が敗れるのは必定である。
趙が滅びれば秦はさらに強くなり、疲れに乗じる事など出来るはずもない。
楚は先の戦いで秦に敗れたばかりであるし、楚の懐王は安座する事もせず苦心し、国中の兵を挙げて宋義に任せておる。
宋義は国家の安楽も破滅も一挙に握っておるのに、士卒を憐れむ心もない。
宋義は自分の子を斉の宰相とし、私情に溺れるとは社稷の臣と言えるであろうか。」
項羽は宋義の態度を問題視したわけです。
宋義の最後
項羽は翌朝、宋義の元に行くと、宋義の首を切り落としてしまいます。
項羽は鼎を持ち上げる事が出来る程の怪力であり、項梁と挙兵した時には、殷通の首を切り落とし、周りの兵士数十人を斬り捨てた程の腕前です。
これを考えれば、宋義の首を切り落とす事など、項羽にとってみれば造作もなかったのでしょう。
項羽は宋義を斬り捨てると、軍中に布令を行い、次の様に述べています。
項羽「宋義は斉と内通しており謀反を企んだので、楚王は密かに儂に命じ、宋義を誅させたのである。」
この時に諸将は項羽を恐れ服した事で、諸将は項羽を仮の上将軍として認めました。
項羽は桓楚に命令し、宋義の件を楚の懐王に報告したわけです。
懐王は項羽を楚の上将軍に任じ、英布や蒲将軍は項羽の配下となります。
尚、宋義の子である宋襄には、項羽が直ぐに追手を出して、追いついた所で斬り捨てています。
項羽は楚軍を率いて北上し、秦の王離を完膚なきまでに破り、鉅鹿の戦いで大勝利を収めました。
宋義の評価
宋義ですが、項梁の死を予言するなど、知者だったはずです。
しかし、上将軍になるや項羽に殺害されています。
項羽に殺害される顛末に関しては、宋義の目が曇った様に思います。
息子の宋義を斉の宰相にするなど、自分の政争の事ばかりを考えて、内部を疎かにした様に思います。
宋義は項羽に漁夫の利を狙うと宣言し、軍を動かさなかったと述べています。
しかし、項羽の言葉から考えるに、楚軍の食料も少なくなっており、楚軍が早く趙に到着しなくては、食料の危機にあったのではないでしょうか。
こうした情勢の中で、息子の宋襄との送別の為に、大宴会を開くなどは空気を読めない行動にも感じました。
項羽は兵士に対して、慈愛の情を示した話もあり、自軍の兵士が食糧不足で悩むのを我慢できなかったのでしょう。
個人的には、宋義は上将軍になった事で、政争にのめり込んだのが敗因に様に思います。