宋義が楚の上将軍となり、趙を目指しますが、宋義は安陽で46日間も軍を停止しました。
この間に、宋義は息子である宋襄を斉の大臣にしようと、斉に送り込んでいます。
宋義の行動は項羽に怒りを買い失敗に終わりますが、宋襄はなぜ斉の宰相になったのか?考えてみました。
尚、宋襄は春秋五覇の一人に数えられ、楚の成王に大敗した宋の襄公の事ではないという事をご理解ください。
宋襄の仁で有名な、宋の襄公ではないと言う事です。
あくまでも、宋義の子で秦末期の宋襄の解説となります。
宋襄が最後を迎えるまでの経緯
宋襄が斉の宰相になる事が決定し、宋襄が最後を迎える事になるまでのお話です。
項梁の死を見通す
宋襄の父親である宋義は、項梁の死を予言した人物でもあります。
項梁が亡くなる数日前に、宋義は斉への使者となっており、道中で行き会った、斉の高陵君に項梁の死を予言した事で有名となりました。
宋義は斉へ向かっている最中に高陵君に遭遇したのであり、宋義は斉に行った事は間違いないでしょう。
当時の斉では田市が斉王ではありましたが、田栄が実権を握り弟の田横が補佐する形だったはずです。
宋義は田栄と会見した可能性が高く、この時に息子の田襄が斉の宰相になる話しが出たのかも知れません。
ただし、宋襄が斉の宰相になったとしても、名前だけで実権は田栄が握り続けたはずです。
しかし、宋義が斉でどの様な会話をしたのかは、記録がなく、あくまでも想像の世界の話となります。
尚、斉の高陵君は楚に到着すると、宋義が項梁の死を予言した事を、楚の懐王に語り、兵法に精通した者として宋義は上将軍となります。
この時に、宋義は次将に項羽、末将に范増を引き連れて北上したわけです。
記録がありませんが、宋義の軍の中には、宋襄もいたのではないかと考えられます。
項羽の追手により命を落とす
上将軍となった宋義は卿子冠軍を名乗り、趙への救援に向かう事になります。
この時に、趙と秦の間で鉅鹿の戦いが起こりますが、趙軍は鉅鹿の城を包囲され圧倒的に不利な状態で、国家の存亡の危機にありました。
趙は危機的な状況にも関わらず、援軍に向かったはずの宋義は、軍を46日間も安陽で停止させてしまいます。
項羽は宋義の行動に不満を持ちます。
宋襄が斉の宰相となる
宋義は趙と秦を戦わせて、漁夫の利を狙う作戦だったとされています。
しかし、趙と秦を戦わせる前に、自軍の兵糧が欠乏してきた話もあります。
人によっては、宋義は漁夫の利を得るどころか、自軍を兵糧攻めにしたと酷評される場合すらもあるほどです。
こうした中で、宋義は宋襄を斉の宰相にする事が決定しました。
宋義は宋襄を斉の宰相にする時に、無塩まで行き、大宴会を催したとも伝わっています。
無塩の大宴会が終わると、宋襄は斉を目指して出発する事になりました。
宋襄の最後
項羽は兵士の士気が下がっているのに、大宴会を催した宋義の態度が許せなかったのでしょう。
項羽は宋義の首を斬り、自ら上将軍となります。
さらに、項羽は宋襄への追手を出し、宋襄も追手に追いつかれた事から、命を落としました。
宋襄は斉に辿り着く前に、命を落とす事になったわけです。
宋襄はなぜ斉の宰相になったのか?
宋義はなぜ宋襄を斉の宰相にしたのか、様々な説があるようなので考えてみたいと思います。
楚軍が壊滅した場合の保険
この時の秦軍は圧倒的な強さを誇っており、趙は滅亡寸前でした。
鉅鹿の城に趙歇と張耳は籠城しますが、秦の王離が率いる秦の正規軍30万の前に落城寸前だったわけです。
燕王の韓広は臧荼を将軍として、趙への援軍としたり、趙の陳余や張敖は兵を集めて鉅鹿に戻って来ましたが、秦の正規軍の威圧感からなのか傍観する事しか出来ませんでした。
最終的に鉅鹿の戦いは、項羽の大活躍により楚軍が勝利を収めましたが、普通で考えれば秦軍に勝つのは難しい状態だったわけです。
秦の王離や章邯に趙が滅ぼされ、楚軍に襲い掛かってきたら、楚軍が敗れる可能性も高いと言えます。
楚軍が敗れた時に、宋襄が斉の宰相になっていれば、斉へ亡命するなどの手段もあるはずです。
王離の軍が趙を滅ぼしたとすれば、斉への攻撃も考えられます。
しかし、この時に劉邦が咸陽に向かっており、王離の軍は咸陽方面に軍を割いて向かう可能性もある様に思いました。
それを考えると、王離は積極的に斉を攻撃しない可能性もあり、宋義は楚軍が敗れた時の保険として、宋襄を斉の宰相に送り込んだとも考えられます。
権力の拡大
宋義が権力の拡大を狙って、宋襄を斉に送り込んだとする説です。
これが一般的に言われている、宋義が宋襄を斉に送り込んだ理由となるでしょう。
当時の楚の有力者を見ると、亡くなった項梁の一族で副将とも言える項羽がいます。
他にも、楚の懐王から直で秦の首都咸陽を目指す様に指示された劉邦もいます。
さらに、楚の上柱国には陳嬰がいますが、陳嬰は楚の懐王と共に彭城にいました。
宋義は上将軍であり項羽が配下にいますから、かなり良いポジションにいるとも言えます。
ここで宋義の子である宋襄が斉の宰相になれば、宋義の権力はさらに重たくなるはずです。
宋義は安陽で46日間も滞在していましたが、実質は息子の宋襄を斉の大臣にする為の政治工作をしていた可能性も高いと言えます。
宋義は権力をさらに強大な物にする為に、宋襄を斉の宰相にしようとした可能性も十分にある様に思いました。
尚、宋義が仮に項羽に殺されず、宋襄が斉の大臣になり、秦を滅ぼしたとしたら、宋義も王として封じられていたはずです。
それか、宋義が秦を滅ぼしたのであれば、項羽の代わりに、天下を主催する様な最大勢力となっていたとも考えられます。
財産が欲しかった
項梁や項羽の家柄は、楚の名家ですが、宋義がどの様な家柄だったのかはよく分かっていません。
宋義は楚の懐王からは認められてはいましたが、諸将が宋義にどれ位の求心力があったのかは不明です。
宋義の家は寒門の出であり、財産が少なく、家族を養う為に、宋襄を斉の宰相に送り込んだと考えた説となります。
ただし、この説に関しても明確な証拠があるわけではなく、宋義がどれ程の財産を持っていたのかは分かってはいません。
斉に背後を衝かれるのを恐れた
宋義の軍は趙を救ったら、秦の首都である咸陽に向かう事になったはずです。
趙を救った後に、宋義率いる楚軍が西行してしまったら、背後を斉におびやかされる可能性も出て来る事でしょう。
宋義は斉の田栄らに背後を攻撃される事を恐れ、斉の行動を抑制する為に、宋襄を斉の宰相になれる様に政治工作を行たとする説となります。
しかし、外交であれば、そもそも楚の懐王が行えばよいわけです。
さらに、楚の懐王の所には、上柱国の陳嬰がいますし、陳嬰は2万の兵を引き連れて、項梁に合流した話があります。
それを考えると、楚の懐王も彭城で、それなりの戦力を有していたとも考えられます。
楚の懐王が、ある程度の兵を彭城の守備に持っているのであれば、斉に背後を衝かれる可能性は低い様に思います。
他にも、項羽は宋義と宋襄を殺害し、北上し趙を救い関中に向かいましたが、斉は特に動いてはいません。
総合的に考えて、宋義が宋襄を斉への抑えとして、斉の大臣に就任させた可能性は低いと言えるのではないでしょうか。