蒋壱は正史三国志に名前が登場する人物です。
蒋壱の父親は蒋欽であり孫策、孫権と二代に仕え、呂蒙と共に学問に励んだ呉下の阿蒙の話で有名です。
蒋欽は関羽討伐の直後亡くなり、蒋壱が後継者となります。
蒋壱は劉備との夷陵の戦いにも参戦し、魏との南郡での戦いにも参戦しました。
しかし、蒋壱は戦いの最中に亡くなったとあります。
今回は呉の名将・蒋欽の子である蒋壱を解説します。
夷陵の戦い
蒋壱は蒋欽が亡くなると宣城侯となります。
蒋欽は国家に対し功績があり、孫権は蒋欽が亡くなった時に、土地を妻子に与えたとあり、蒋壱は候になる事が出来たのでしょう。
蒋壱は孫権から兵を預けられており、下記の記述が存在します。
※正史三国志 蒋欽伝より
蒋壱は劉備との戦いの中で手柄を挙げた。
具体的に何処の戦いとは書かれていませんが、これは陸遜が呉軍を指揮した夷陵の戦いを指すのでしょう。
呂蒙の関羽討伐が終わった時期に、父親の蒋欽が亡くなっており、それ以降に呉軍と劉備が戦ったとなると夷陵の戦い以外に考えられません。
具体的な戦功の内容は不明ですが、蒋壱も夷陵の戦いでの勝利に貢献したという事なのでしょう。
蒋壱に関しては夷陵の戦い以外で戦場に出た記録はありませんが、父親の蒋欽と共に幾つかの戦いは経験していた様にも感じています。
蒋壱の最後
夷陵の戦いが終わると、魏の曹丕は三方面から呉に攻撃を仕掛けてきました。
曹真、夏侯尚、曹休、張郃、徐晃らが朱然が守る江陵城を囲む事になります。
蒋欽伝の記述に「軍を還して南郡に向かった」とする記述があり、江陵城の中に韓当や蒋壱などもいたのでしょう。
呉は三方面から魏の攻撃を受け苦しい立場でしたが、孫権が江陵城を救う為に諸葛瑾や潘璋を派遣しますが、芳しい成果を上げる事はできませんでした。
呉軍は苦戦しますが、江陵城は朱然、韓当、蒋壱の奮戦もあり凌いでいたのでしょう。
こうした中で次の記述が正史三国志にあります。
※正史三国志 蒋欽伝より
魏との戦いを行っている最中に陣中で没した。
この記述を見ると分かる様に、蒋壱は江陵城で戦いが繰り広げられている最中に亡くなってしまった事になります。
蒋欽伝では病死とは書かれていませんが、この時に江陵城内で疫病が蔓延していた事が分かっており、蒋壱も病で亡くなってしまったのでしょう。
これを考えると蒋壱は江陵城の戦いが行われた西暦222年に没した事が分かるはずです。
尚、江陵の戦いは蒋壱が亡くなった後も続きますが、魏軍でも疫病が流行し、曹丕は撤退命令を出した事で呉軍が勝利しました。
蒋壱が亡くなると、弟の蒋休が後継者となりますが、罪を犯し所領と官位を失ったとあります。