焦和は正史三国志や後漢書に名前が登場する人物です。
焦和は臧洪の前の青州刺史になった人物であり、正史三国志の注釈『九州春秋』及び、後漢書では臧洪伝に記述されています。
焦和は史書の記述を見る限りだと、良い事が掛かれておらず「威勢だけはよかった」「実の無い名声を立てるのを好んだ」と酷い言われ様です。
それでも、焦和は反董卓連合に参加したり、青州において強大な兵士を擁していた話があります。
ただし、占いに頼り巫女を信じ切るなど乱世には向かない様に感じました。
今回は口だけはやけに達者だったのではないか?と考えられる焦和を解説します。
因みに、焦和が治めた青州は荒廃したと伝わっています。
青州刺史となる
正史三国志の注釈・九州春秋によれば焦和は初平年間(190年ー193年)に青州刺史になったとあります。
焦和は反董卓連合に参加しており、190年に青州刺史になったとするのが妥当でしょう。
初期の頃の董卓政権では名士を優遇していた事実があり、焦和は名士優遇策の一環として青州刺史に任命されたのかも知れません。
当時の青州は張角が引き起こした黄巾の乱が完全に治まっておらず、黄巾賊の残党が多くおり治めにくい地域でもあった様に思います。
ただし、焦和が率いる青州の軍は武装度が高く、強い軍隊は持っていました。
この強力な軍を焦和が上手く使いこなす事が出来れば、違った道もあった様に感じています。
熱心に反董卓連合に参加
反董卓連合が結成すると、焦和は自ら進んで積極的に参加しました。
九州春秋には「同盟に参加するのに熱心だった」とする記述があります。
焦和の軍は都に入った様な話もありますが、住民を保護する余裕もなく、軍隊を引き連れて黄河を超えて西方に向かったとあります。
この記述を見るに焦和は軍隊を指揮するのが苦手であり、統率力に欠ける部分が多くあったのでしょう。
董卓の軍と連合軍の戦いとなりますが、九州春秋には次の記述が存在します。
※九州春秋より
袁紹と曹操が董卓の将軍と滎陽で戦い敗北した。
袁紹は反董卓連合の盟主ではありましたが、董卓軍と戦った記録が無く滎陽で曹操と徐栄が戦った事を指すのでしょう。
曹操が董卓軍の徐栄に敗れた事で、各地で黄巾賊の残党が蜂起したのか、街や村を破壊する事態となります。
焦和は黄巾賊に対処する必要が出て来たわけです。
尚、後漢書の記述を考えると、焦和は連合軍と合流する前に青州の黄巾賊が暴れ出し、引き返したのが現状なのかも知れません。
対処できない焦和
黄巾賊の残党が暴れ出しますが、焦和は抵抗する事が出来なかったとあります。
この時の焦和の軍は強く優秀な武器と多数の兵がいた話がありますが、指揮官の焦和は采配を振るう事が出来ず、対処出来なかったという事なのでしょう。
優秀な兵が揃っていても、上官が無能であれば、何も出来ないと言う典型の様にも感じました。
さらに、焦和は致命的なミスを犯しており、情報を集める為の斥候を出していなかったわけです。
こうした中で焦和の軍にデマが流れ、多くの将兵の間に不安が広がる事となります。
焦和の軍は情報を何も収集していなかった事で、見えない恐怖との戦いとなってしまったのでしょう。
焦和の軍でも疑心暗鬼に陥り、軍の士気は大きく低下したはずです。
焦和はどう見ても戦争に関しては、ド素人だと言えます。
敵前逃亡
こうした中で、焦和の軍は敵軍と遭遇しました。
焦和は情報を集めていなかったので、どの様な敵なのかも分かりませんし、敵兵の数も分かってはいなかったはずです。
こうした中で焦和は逃亡する事となります。
九州春秋には下記の様に記述されています。
※九州春秋より
敵の姿をみると風をくらって逃亡し、一度も土ぼこりを立て、旗指物や陣太鼓を入り乱れての戦闘を行った事が無かった。
焦和は強い軍隊を持っていたにも関わらず、戦う気もなく一目散に逃げた事になります。
焦和は敵に対しては、陥氷丸という水を溶かす薬物を投げ、渡って来ない様にしました。
焦和にしてみれば、敵が近づいてくるのを何としても避けたかったのでしょう。
困った時の神頼み
焦和は陥氷丸だけではなく、敵への備えとして神頼みをした記述があります。
※九州春秋より
よろずの神々に祈りを捧げ、必勝を祈願し、いつも筮竹を前に並べ巫女を側から離さなかった。
指揮官がこんな状態では戦う事も出来ず、青州は荒廃していく事となります。
焦和は青州刺史としても役目を全くこなせなかったとも言えるでしょう。
室内では威勢がよかった
焦和を見ると全くの無能だと感じるかも知れません。
それでも、九州春秋によれば、焦和は室内にいれば、雲を突き抜けるかの如く威勢がよく、観念的な議論をしてみせたと書かれています。
これを考えると、焦和はかなりの口達者であったのでしょう。
しかし、出陣すると、混乱してどの様な命令を出せばいいのかも分からなかったとあります。
結果として焦和は賊を鎮圧出来ず、青州は荒れ果てて、全て廃墟と化したとあります。
焦和を見ると分かる様に、軍隊を指揮するのは、かなりの苦手分野だったのでしょう。
焦和が青州刺史になった理由
個人的な意見なのですが、焦和を見ると全くの無能に見えるのではないでしょうか。
この焦和が何故、青州刺史になれたのか考えてみました。
当時は宦官が濁流派と呼ばれ、名士層が清流派と呼ばれていた時代です。
清流派は人物批評などを活発に行っていた話があり、焦和は威勢よく人物評価をした事で、名声があったのかも知れません。
さらに、董卓は名士の許靖や周毖に人事を任せ、名士層を重用する政策を取っています。
こうした政策の中で、焦和は青州刺史に最適な人物だと考えられ、青州刺史となった様に感じています。
董卓にしてみても、弁は立つが軍事の経験がない焦和は、任命しやすい部分もあった様に思います。
ただし、既に分かっている様に、焦和は青州刺史として活躍する事はありませんでした。
焦和が亡くなると袁紹は臧洪に青州を任せ、公孫瓚は田楷を青州刺史に任命しています。
臧洪は袁紹の期待に応え、青州を上手く治めた様です。
焦和が何年に亡くなったのかは記録がありませんが、時期的に西暦191年だったのではないか?と考えられています。
戦いでのストレスから亡くなってしまったのかも知れません。