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蔡邕(さいよう)は良識がある儒臣

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宮下悠史

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名前蔡邕(さいよう) 字:伯喈
生没年132or133年ー192年
時代三国志、後漢末期
年表170年 郎中となる
190年 左中郎将となる
画像亶夏王朝

蔡邕の字を伯喈であり、正史三国志や後漢書などに名前があり後漢書には蔡邕伝があります。

蔡邕の出身地は、陳留郡圉県であり、正史三国志には蔡邕伝はありませんが、あちこちの部分に蔡邕の名前があり、その名を知る事が出来ます。

尚、蔡邕は董卓に信任され董卓政権の良心とも呼べる人物でした。

蔡邕には蔡琰という娘がおり、蔡文姫の名前でも有名です。

他にも、蔡琰の外孫で羊祜がおり、羊祜は呉の名将陸抗とも戦った人物となっています。

蔡邕は音楽にも優れ、幾つもの逸話も残っています。

名族の生まれ

蔡邕の先祖を辿って行くと、蔡叔度に行きあたると伝わっています。

蔡叔度は周の文王の子であり、周の武王の弟にあたる人物で、西周王朝初期の人物です。

蔡叔度は三監の乱で失脚しますが、後に復興を果たす事となります。

蔡邕の六代前に蔡勲がおり、王莽と距離を取り深山に隠れた話があります。

蔡邕は順帝の時代に蔡棱の子として生まれました。

蔡邕の生年は132年か133年とされています。

三年の喪

蔡邕の母親は長く病で苦しみます。

この時に蔡邕は3年間も母親の看病を行い、襟帯を解かず自分の部屋で寝なかった日が70日に及んだとあります。

後漢王朝は有能さよりも孝の精神を大事にした王朝でしたが、蔡邕ほどに熱心に看病した例は殆どなかった様です。

さらに、蔡邕は母親が亡くなると三年の喪を正しく行いました。

三年の喪は完璧に行うと、常人では耐え切れない様な苦痛を味わう話がありますが、その三年の喪を蔡邕はやり遂げたわけです。

本当に三年の喪を行っている蔡邕を見る為に、多くの人が見学に来た話まであります。

蔡邕はいっきに知名度が上がった事でしょう。

琴の名手

桓帝の時代は、宦官の時代だとも言えます。

皇帝の側にいる宦官が大きな力を持ちました。

こうした中で、蔡邕は太傅の胡広に学問を教わる事になります。

蔡邕は多才な人であり、天文、数学、音楽を覚えました。

蔡邕は琴の名手と呼ばれる程の実力を蓄えています。

ある時に、皇帝の側で仕える宦官である中常侍の徐璜と左悺は、蔡邕が琴の名手だと耳にしました。

ここで徐璜と左悺は、桓帝に蔡邕を招き琴の腕を披露する様に述べます。

蔡邕は桓帝に呼ばれると、陳留から出発しますが、途中で病と称し郷里に帰った話があります。

蔡邕は後漢王朝の中央にいたわけではなく、宦官に対しての個人的な恨みは無かったかと思いますが、当時は清流派と呼ばれる名士層と濁流派と呼ばれる宦官が勢力を争っていた時代でもあります。

党錮の禁により多くの名士が処分されもしました。

蔡邕は宦官の呼びつけで都に行ったのでは「宦官の犬」と揶揄される可能性もあり、途中で引き返したのではないか?とも考えられています。

蔡邕は郷里の陳留に戻りました。

仕官

171年になると司徒の鄭玄の招聘を受け、蔡邕は洛陽に上る事となります。

この頃には後漢の桓帝は崩御しており、霊帝が即位しています。

鄭玄は後漢末期で最高峰の学者と呼ばれる人物ですが、蔡邕にも思う所があったのでしょう。

後に蔡邕は河平県の県令となりますが、中央に呼ばれて郎中となります。

蔡邕は博学な人物でもあった事から、東観で書物の校訂をする任務を任されました。

東観には堂谿典、馬日磾、楊彪、盧植、張馴、韓説らがおり、共に六経の校訂や漢紀の編纂などを行っています。

東観は天下の学者が集まる部署であり、ハイレベルな作業が行われた事でしょう。

流罪

霊帝の時代は天変地異が多くあり、霊帝は心を痛めていました。

霊帝は政治が悪くないか、蔡邕に意見書を提出する様に求めています。

この時に、霊帝は黒い袋に意見書を入れて出す様に蔡邕に求めており、自分以外は意見書を見ない事を示した上で、忌憚なく蔡邕の意見を聞きたがっていたのが分かります。

ここで蔡邕は愚直にも、政治の害になっている事などを、正直に進言してしまったのでしょう。

蔡邕の意見書を霊帝以外が見なかったのであれば問題は無かったはずですが、霊帝が蔡邕の意見書を直ぐに処分しなかった事もあり、宦官の曹節の知る所となります。

蔡邕の意見書には害になっている宦官などの話もあり、曹節は程璜に告げ、程璜は蔡邕を巧みに讒言しました。

結果として蔡邕は叔父の蔡質と共に、劉郃を中傷しようと企んでいると言われ、捕らえられる事となります。

程璜の讒言は功を奏し、蔡邕は処刑される事になります。

ここで宦官の呂強が正論を丁寧に述べた事で、蔡邕の処刑は取りやめられ、結果として蔡邕は頭を剃られる髠刑となり朔方郡への流刑となります。

因みに、呂強は正義の志を持った宦官であり、蔡邕の復帰を進言しますが、これは却下されています。

陽球の刺客

蔡邕は流刑地に向かいますが、叔父の蔡質と陽球は仲が悪く、陽球はこれを機に蔡氏を滅ぼそうと考えました。

陽球は刺客を送りますが、刺客たちは蔡邕に義を感じており、蔡邕に危害を加えようとする者はいなかったわけです。

陽球は諦めず、州や郡の役人に賄賂を贈り蔡邕を刺殺する様に依頼しましたが、逆に役人の方が蔡邕に陽球に命を狙われている事を告げました。

蔡邕は人望力で身を守ったと言えるでしょう。

蔡邕は無事に流刑地に辿り着く事になります。

12年の逃亡生活の始まり

蔡邕は流刑地で暮らしますが、1年もしないうちに霊帝は、恩赦を出し蔡邕は許されました。

霊帝は蔡邕を許し、再び東観で校訂などの仕事をやらせたかったのでしょう。

しかし、蔡邕は中常侍の王甫の弟で五原太守の王智に讒言されてしまいます。

蔡邕は宦官の怖さを知っており、身の危険を感じ江海に亡命しました。

これが12年に及ぶ逃亡生活の始まりでもあったわけです。

天才音楽家

竹の笛

蔡邕は南方に逃げ、会稽郡に行った時に家屋の垂木を見ていました。

垂木には竹が使われており、それを見た蔡邕は「あの竹はよい笛になる」と述べています。

実際に使っている竹で笛を作ってみると、珍しい音色がした話があります。

蔡邕は音楽家としての才能を見る事が出来る逸話です。

焦尾琴

蔡邕が呉郡にいた時に、桐の木を焼いてご飯を炊いている者がいました。

火が弾ける音がした時に「その木を譲って欲しい」と述べ、急いで火の中から木を取り出して貰います。

蔡邕が取り出した木から琴を作ると、見事な音色がしたと言います。

尚、蔡邕の事は火の中から取り出した木で出来ており、尾の部分が焦げていたわけです。

それを見た人々は焦尾琴と呼びました。

焦尾琴は蔡邕の天才的な音楽の才能を、現わす言葉でもあった事でしょう。

音楽で感情を読み取る

この話は蔡邕が南方に避難する前の陳留にいた時のお話ですが、音楽と関わる事なので合わせて紹介します。

蔡邕は隣人に招かれて酒宴に行きますが、隣の家から琴が聞こえてきました。

隣家の門の前で音色を聞いた蔡邕は、隣家の主人は皆に楽しんで貰う為に客人たちを集めたはずなのに、琴からは殺意が満ちている。と述べます。

蔡邕は家の中に入るのは危険だと考え、自宅に帰ってしまいます。

蔡邕が帰った事を知ると隣家の主人は、蔡邕を追いかけると、蔡邕は思ったままに話しました。

隣家の主人は琴を弾いていた者を、蔡邕の前に連れて来る事にします。

蔡邕が理由を話すと、琴を弾いていた者は「蝉を襲おうとするカマキリを見てヒヤヒヤしていた」と述べます。

琴を弾いていた蔡邕は「これで謎が解けた」と述べ、納得した話があります。

蔡邕は人の感情を音色で聞き分ける事が出来たのか、音楽に対しては天才的な才能を持っていたのでしょう。

音楽で物事を判断するところは、呉の季札を彷彿させる所があります。

尚、蔡邕の音楽の才能は娘の蔡琰に受け継がれる事となります。

董卓に招かれる

189年に霊帝が崩御すると政争から何進宦官に暗殺され、宦官らも袁紹袁術により多くが命を落しました。

こうした中で少帝や陳留王を保護した董卓が実権を握ります。

董卓に反発する名士は多く、袁紹、袁術、曹操などは都を脱出し、反董卓連合を結成しました。

こうした中で董卓は司空となるや蔡邕を招聘しています。

董卓は名士を優遇しており、蔡邕に興味を持ち招いたのでしょう。

しかし、名士から董卓は決して評判がよいとは言えず、そういう事情もあったのか蔡邕は病を理由に仕官を断わりました。

董卓は蔡邕の態度に怒り罵ると、蔡邕は命令に従い出仕しています。

董卓は蔡邕が都にやって来ると、今度は丁重に扱い尊重した話があります。

蔡邕は実際に董卓に会ってみると、噂で聞いていた様な人ではなく、感じる所があり親密な関係を築いたとも考えられるはずです。

蔡邕は風采が上がらない王粲を高く評価した話があり、一般的な名士と人に対する見方が違っていたのかも知れません。

董卓は暴虐な君主と言われがちですが、董卓政権の善意が蔡邕とも言えるでしょう。

董卓政権で蔡邕は祭酒となり、昇進し尚書となり3日間で三台(三つの役所)を歴任し、巴郡太守となり、献帝の侍中となります。

蔡邕は董卓政権で重用され献帝の側近にまでなりました。

尚、蔡邕は董卓と盧植が言い争った時には、盧植を庇った話があります。

過去に蔡邕は盧植に庇って貰った事があり、恩返しのつもりで盧植を救ったのでしょう。

董卓を諫める

董卓は長安遷都を決行しました。

これにより蔡邕も洛陽から長安に移る事になります。

尚、長安遷都により洛陽は焦土と化しており、流石に蔡邕も心を痛めた事でしょう。

因みに、董卓は長安遷都後も直ぐには、長安に入らず洛陽に駐屯していましたが、孫堅の軍に敗れる事にもなり長安に移動しました。

この時に既に董卓は相国となっており、群臣に勧められ尚父と名乗った方が良いのか悩み蔡邕に相談する事になります。

尚父は過去に呂尚が呼ばれた尊称です。

蔡邕は次の様に答えました。

蔡邕「明公(董卓)の威光は高大ですが、太公(呂尚)と比べたら相応しいとは言えません。

関東の地を平定し天子の車駕を旧都にお返ししてから、協議するべきです」

董卓は蔡邕の意見に反対せず、尚父を尊称を使う事は取りやめました。

この一件を見ても、董卓がどれだけ蔡邕を尊重し、信頼していたのかが分かる様に思います。

蔡邕の最後

西暦192年に呂布が董卓を殺害しました。

この時に蔡邕は左中郎将・高陽侯となっており、王允と一緒にいました。

蔡邕は董卓の死を聞くと、王允の前で嘆息します。

これを見ていた王允は次の様に述べ、蔡邕を叱責しました。

王允「董卓は国の大賊である。

危うく漢王室が滅びる所だった。

君は王臣として我等と怒りを同じとせねばならぬのに、個人的な厚遇を懐かしみ大節を忘れている。

天が罪人を誅してくれたのに、君だけが悼痛しているのだ。

それは董卓と共に謀反したのと同じだ」

王允は激怒し、蔡邕を逮捕させたわけです。

蔡邕は獄に行くと、次の様に謝罪しました。

蔡邕「私は不忠者ですが、古今の大義を厭きる程に聞いておりますし、常に口ずさんでおります。

どうして国に背き董卓に向く事がありましょうぞ。

刑を受けて漢史を成す事を願います」

蔡邕は獄から身を低くして王允に謝罪し、漢史の編纂を願います。

蔡邕は元々は野望もなく、古今東西の文章を校訂するなどをやり遂げたいと願ったのでしょう。

この時の蔡邕の言葉に噓偽りは無かった様に思います。

周りの者たちも蔡邕の事をよく理解していたのか、蔡邕を許す様に懇願しました。

馬日磾も「蔡邕を釈放せねば人望を失う」と諫めますが、王允は蔡邕を許す事は無かったわけです。

王允は正義感が強く頑固な部分が多々あり、董卓に重用される蔡邕を嫌悪の目で見ていたのかも知れません。

蔡邕は王允に許されず獄死する事となります。

尚、蔡邕を獄死させた王允も賈詡の進言を入れた李傕郭汜、樊稠、張済ら涼州勢が報復の為、長安に進軍した事を命を落しました。

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