蒋舒は正史三国志に登場する人物です。
蒋舒は武興督でしたが、功績が無かった事で職務を剥奪し漢中太守を補佐する役目としました。
しかし、蒋舒は蜀に対し恨みを抱く事になります。
263年に魏の鍾会が漢と楽を攻撃し、胡烈が陽安関を攻撃すると、蒋舒は傅僉を欺き自らは降伏しました。
これにより漢中の防禦ラインが崩壊する事となり、蜀滅亡の一因を作ったとも言えます。
蒋舒が呆気なく降伏しなければ張翼や董厥の援軍と共に、魏軍を漢中で防ぐ事も出来たのかも知れません。
武興督を解任
蜀記によると、蒋舒は武興督でしたが目立った功績を挙げる事はありませんでした。
そこで蜀の首脳部は別の人物を武興督としたわけです。
しかし、蒋舒をそのまま漢中に残し、漢中太守を補佐させました。
武興督を更迭させられた蒋舒の心は穏やかではなく、怨みを抱く事となります。
蒋舒の様な人物をそのまま漢中に残した事を考え、蜀は深刻な人材不足だったのではないか?と考える人もいます。
実際に蜀では段谷の戦いで姜維が鄧艾に大敗した事で、人材不足を加速させていたのでしょう。
過去に曹叡は夏侯楙を解任しましたが、部署を移動し恨みを抱かない様に役職を与えています。
こうした配慮をしなかった(出来なかった)蜀の首脳部には配慮が足りなかったと言えるはずです。
魏に寝返る
263年に魏の鍾会が将となり鄧艾らと共に漢中に進軍しました。
姜維は鍾会の動きを警戒しており、劉禅には廖化と張翼を派遣し防備を固める様に進言しています。
しかし、劉禅が黄皓に相談すると「魏は攻めては来ない」と述べた事で、防備を怠りました。
魏の鍾会が漢中に侵攻して来ると、蒋舒と傅僉と共に陽平関を守る事となります。
陽平関に魏の胡烈が進軍して来ると、蒋舒は出撃して魏軍を迎え撃とうとします。
この時に蜀の首脳部からは陽安関を守る様に命じられており、傅僉は出撃するべきではないと諫言しました。
しかし、蒋舒は次の様に述べています。
※漢晋春秋より
蒋舒「貴方は城を守り抜く事を手柄だと考え、私は出撃して敵を打ち破る事を手柄だと考えておる。
それぞれが、自分の思った通りにやろうではないか」
そういうと蒋舒は兵を引き連れて、城を出ました。
しかし、蒋舒は戦う事もなく胡烈に降伏しました。
漢晋春秋では、この後に胡烈が陽安関の傅僉を攻撃し討ち取っています。
漢晋春秋では蒋舒が城を出て胡烈に降伏した事になっていますが、正史三国志だと城を明渡して降伏し、傅僉が討死した事になっています。
記述に差異はあれど、蒋舒が胡烈に降伏し傅僉が戦死した事だけは間違いないのでしょう。
蒋舒の降伏により陽安関は陥落し、蜀の漢中の防備は崩壊しました。
この後に、姜維、張翼、廖化、董厥が剣閣の戦いで鍾会相手に奮戦する事となりますが、鄧艾が綿竹の戦いで諸葛瞻を破り劉禅を降伏させ蜀は滅亡しました。
これを考えれば蒋舒が蜀を裏切り魏に寝返った事が、一因となり蜀は滅亡したとも言えそうです。
尚、蒋舒は魏に降伏した所で記述が途絶えており、この後にどの様になったのかは分かっていません。