名前 | 周規(しゅうき) |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢 |
周規は後漢王朝の時代を生きた人物であり、揚州会稽郡の出身です。
周規は能力が認められたのか、中央に招聘された話があります。
しかし、周規の家は貧しかったのか、中央に行く為の資金を工面する事が出来ず、郡から100万銭を借りました。
周規は中央に行きはしましたが、洛陽では上手く行かなかった様で、借金だけが残ってしまったわけです。
困り果てた周規ですが、同郷の朱儁が金を工面してくれたお陰で救われた話があります。
今回は、かなりマイナーな人物ですが、会稽郡の周規のお話です。
尚、周規の話は後漢王朝の後期の様相が分かる話にもなっています。
中央に招聘される
後漢書の朱儁伝の記述によれば、周規は公府に招聘される事になります。
公府は三公の役所の事であり、周規は能力を高く評価されての人事だった様に感じています。
しかし、周規の財産では支度金が足りず、郡から100万銭を借り受け費用としました。
日本の役所では考えられませんが、中国では贈り物(賄賂)をするのが当然だったわけです。
中央に行くには、上納金や部署への贈り物、推挙してくれた方へのお礼など、それなりの費用が掛かるわけです。
当時は霊帝が自ら後漢王朝の財政を潤す為に売官を行っており、贈り物の金額も高騰していました。
中央に招聘されても贈り物の額が高すぎてしまい、家柄が低かったり家に財産が無ければ能力があっても仕官は難しかったとする話もあります。
こうした理由もあり、周規は中央に行くのに多額の借金を背負う事になります。
借金と救いの手
周規は中央では上手く行かなかったのか、多額の借金が残ってしまいました。
郡の方では周規に借金の返済を迫りますが、周規は困り果ててしまったわけです。
この時に救いの手を差し伸べたのが朱儁であり、朱儁は母親が商いで使っている絹を勝手に売り払ってしまい、周規の借金を肩代わりしました。
周規は朱儁のお陰もあり借金がチャラになったわけです。
周規は助かりますが、朱儁の母親は激怒し朱儁を責めました。
しかし、朱儁は悪びれた様子もなく「小さな損は大きな利益となって返ってくる」と述べ、母親を宥めています。
尚、周規が朱儁に対し、借金を返済したのかは記録がなく分かっていません。
ただし、朱儁は周規を助けた事により、郡太守の度尚が朱儁を高く評価し、郡太守に推挙しました。
これにより朱儁の出世が始り、朱儁は黄巾の乱では皇甫嵩や盧植と並ぶ名将として名が知れ渡る事となります。
それを考えれば、周規を助けた事は朱儁にとって、かなりのプラスに作用した様に感じています。
周規がこの後にどの様になったのかは不明です。