名前 | 周の孝王 |
生没年 | 生年不明ー紀元前886年? |
在位 | 紀元前891年?ー紀元前886年? |
コメント | 傍系で周王となる |
周の孝王は西周王朝の八代目の君主であり、周の懿王が崩御した事で即位しました。
周の孝王は歴代周王の中で最も影が薄い存在とも言われています。
史記の周本紀を見ても、周の孝王に関する記述は極めて簡潔であり、実績も不明な点が多いです。
周の孝王は長くその号や廟宮に関する金文の確認が取れず、実在を疑われていた存在でもありました。
しかし、周の宣王の時代の金文によって実在が確認する事が出来ました。
尚、西周王朝は武王から全て直系で王位が継承されてきましたが、孝王に関しては史記などの記録を見ても直系ではなく傍系であり、周王朝内部で何かしらの混乱があったのではないかとも考えられています。
因みに、周の孝王が非子を秦に封じた話しがあり、これが後に春秋戦国時代を制す秦の始まりだとされています。
周の孝王の系譜
史記の周本紀には、次の記述が存在します。
※史記 周本紀より
懿王が崩御すると、共王の弟の辟方が立った。
これが孝王である。
孝王が崩御すると、懿王の太子燮がたった。
これが夷王である。
史記の周本紀によると、周の孝王の兄は周の共王だと書かれている事が分かります。
周の共王が周の孝王の兄であれば、必然と周の孝王の父親は周の穆王という事になるでしょう。
西周王朝では周の武王が崩御してから、ずっと父親から子へと直径で繋がってきました。
ここにきて周の懿王が崩御すると、叔父の孝王が即位し、直径での相続が断たれた事になります。
史記の周本紀では孝王は共王の弟であり、懿王とは叔父の関係となります。
しかし、周の孝王の謎がこれで終わらないのは、史記には三代世表があり、周の孝王は懿王の弟だと記述されているわけです。
周の孝王が共王の弟なのか、懿王の弟なのかはっきりとしませんが、直径での相続ではなかった事だけは確かなのでしょう。
周の孝王は傍系にも関わらず、周王になったという事です。
王位簒奪があったのか
周の孝王が傍系にも関わらず、周王となったのは以下の2点が考えられます・
・次の後継者になる予定だった周の夷王が幼かった事で、代理の王として孝王が立った。
・周の孝王が王位を簒奪した。
文献や記録などでは孝王の事はほぼ確認する事が出来ず、実際にどの様な経緯で孝王が周王になったのかはイマイチ分かりません。
しかし、周の宣王の時代の金文で、周の孝王が周王として認められている事から「簒奪ではなかった」と考えるのが主流となっています。
周の孝王が後代の周の宣王が「周王」の一人として認めている事から、中継ぎの王だったとみるべきでしょう。
周の孝王が亡くなると、周の懿王の子である周の夷王が即位している事から、周王朝は傍系から直径に再び戻った事になります。
金文と周の孝王
周の宣王の時代の金文が陝西省宝鶏市眉県常興鎮楊家村窖蔵で発見されています。
発見されたのは逨盤と呼ばれる金文ですが、前半部に次の記述があります。
※逨盤より
我が皇亜祖の懿仲は度量が広く、その君主である孝王・夷王をよく輔弼し周邦に対して功績があった。
逨盤の記述から懿仲が周の孝王と周の夷王に仕えた事が記録されており、これにより長らく存在が謎であった周の孝王に実在が確認されたわけです。
周の孝王と非子
史記の秦本紀によると、周の孝王が非子に馬の繁殖を命じ成功すると、非子を大駱の後継者にしようとしました。
大駱には申候の娘が生んだ子がおり、申候が周の孝王に異を唱えた話しがあります。
そこで、周の孝王は非子を大駱の後継者にするのを取りやめ、非子を秦に封じました。
これが秦の始まりとされています。
史記の秦本紀によれば、周の孝王は非子に嬴氏の祭りを行わせ非子は秦嬴と号した話があります。
先代:懿王 | 次代:夷王 |