周の厲王と言えば暴君のの代名詞にもなっているような人物です。
戦国七雄の戦いを題材にした漫画キングダムでは、李牧が趙の悼襄王の事を「殷の紂王や周の厲王などの類に入らぬ事を願う」という言葉がありました。
基本的に、厲、幽、穆、夷、懿などの盆が付く王様は生前の行動がよろしくない場合が多いです。
もちろん、秦の穆公のように名君ではあったけど、事情により悪い盆が付けられてしまった王様もいます。
今回は、周の厲王が本当に暴虐だったのか解説してみました。
尚、資料にしたのは、史記などの記録だけではなく、一次資料(当時の資料)である金文も考慮しています。
金文を読み解く事で、別の周の厲王像が見えてくる事になります。
因みに、殷の紂王は金文や甲骨文字によれば、中央集権化に失敗し殷は滅びた話しもあり、周の厲王と似ているタイプの君主だったのかも知れません。
史記の周の厲王は暴虐そのもの
司馬遷が書いた史記の周の厲王は、暴虐な君主として描かれています。
その頃の周は衰えていたわけですが、さらに厲王が暴虐な事を行い周を崩壊させたような事が記載されています。
周の厲王は栄の夷公を卿に任命し政治を行わせたわけですが、栄の夷公は利を独占しようとした為に人々から批判されたそうです。
さらに、厲王自身もその事について、周公や召公に諫言されたが聞く耳を持たなかったとあります。
厲王は民衆が不満を口にしていると聞くと民衆の弾圧を始めます。
この事から、人々は口を塞ぎ目で合図を送ったと記録があるのです。
これを見て周の厲王は「文句を言う奴がいなくなった」と得意げに言ったとされています。
それを聞いた召公は「国民の口を塞ぐ事は水を塞ぐよりも危険な事です」と諫めますが、周の厲王は聞く耳を持ちません。
これらの事から諸侯は周に入朝しなくなり、さらに国民の不満も頂点に達します。
その結果、国人による暴動が起き、周の厲王は彘(てい)に逃亡しました。
尚、彘は汾水の近くにあった為に、汾王とも厲王は呼ばれています。
これらの記述であれば明らかに厲王は暴虐な王だと言えるでしょう。
戦国時代の魏の襄王のお墓から発見された竹書紀年にも、この話が書かれていました。
そのため、戦国時代には既に周の厲王が暴虐な王だと認識されていたのが分かります。
これが史記などに記載がある厲王です。
史実であれば確かに暴虐だと言えるでしょう。
金文の厲王は実情が違う
金文というのは、後世に書かれた資料ではなく、当時の実情が分かる資料です。
それによると、史記とは違った厲王が見えてきます。
当時の情勢ですが、周の共王(周の6代目の王)の頃より貴族社会が形成されていたようです。
貴族同士の権力闘争が凄まじかった事が分かっています。
周の懿王、孝王、夷王の時代も貴族たちの権力闘争に王自体が悩まされていました。
中には、実力者の皇父なる人物が王を王都に一人残して向に遷都してしまったなどの話しもあります。
王党派と貴族の権力闘争も凄まじかったのでしょう。
ちょっと前まで、権力を握っていたものが、一気に権力を失ったりし、政情不安定が続いたようなのです。
周の厲王の時代になると、貴族たちの権力闘争は鳴りを潜めるようになります。
その代わりに、新興豪族が台頭するようになり、周の世襲貴族たちが、新興豪族の家来になったりする事もあったようです。
没落貴族もかなり多くいました。
新興豪族の台頭が厲王を悩ませ続けて、その結果として厲王は彘に行ってしまった話があるのです。
これを見ると暴虐だったのかは分かりません。
ただし、厲王の時代のキーポイントになる栄の夷公は金文にも名前があり権力者ではあったようです。
栄の夷公は厲王の末年が近づいて来ると重用されたような感じが強いですが、金文によると父親である夷王の代から名前が見えます。
そのため、周の夷王の代から既に権力を持ち、周の本拠地の近辺の邑を所有していたのではないかと考えられています。
実情が分かりにくい周の厲王
周の厲王は実情が非常に分かりにくいです。
金文の資料はありますが、謎の部分も多いと言えます。
厲王の正確な実態はよく分からないのが実情なのです。
ただし、周の厲王が自ら軍隊を率いた話もあり、西周王朝を建国した武王や昭王、穆王などを彷彿させる人物にも感じます。
周の厲王が力強い周王を取り戻そうとしていた様にも見えます。
厲王は中央集権化を図ったが失敗した
周の厲王は貴族たちの権力闘争などに悩まされていましたが、王朝が衰微するのを立て直そうと考えていたわけです。
そこで重用したのが栄の夷公だったわけです。
栄の夷公は利を独占しようとしたとあるので、貴族や諸侯、新興豪族の権限を削除したりして、王朝の利益を高めたいと考えたのではないでしょうか?
保守派の筆頭として栄の夷公がいたわけです。
先に述べた様に、周の厲王は自ら将となり遠征もしているので、積極的な王様だったのかも知れません。
史記などの記述でも、「楚は王を名乗っていたが周の厲王が暴虐なため取りやめた」という記述があります。
そのため、改革が成功すれば楚は征伐されると恐れをなしていたのかも知れません。
先手を打ち王を名乗るのを取りやめたとする説です。
しかし、厲王の改革は失敗し、権力を削られそうになった者たちの反感を買い攻められて彘に逃亡したとも考えられます。
厲王が暴虐だったわけではなく、改革に失敗して都を追われたとも言えます。
追放した側も大義名分が必要なので、周の厲王は暴虐だったからだと主張したとも考えられるはずです。
中央集権化の裏返しが王朝の利益を独占しようとしたと言う言葉にすり替えられたのかもしません。
流石に、自分の利権が失われてしまうので厲王を追放したと宣言すれば、人々の不快感を煽る事でしょう。
それを防止するための大義名分として、厲王に暴虐な王になってもらったという話です。
厲王はやる気を無くして彘に現実逃避した
もう一つ考えられるのは、厲王が現実逃避して彘に隠居した説です。
厲王は、周王朝を武王・成王・康王の頃のように復活させたいと考えていました。
しかし、様々な事を試してみましたが、30年以上が経過しても一向に成果が上がりません。
さらに、大臣や貴族・豪族たちも自分の利権ばかりを考えて使える奴がいない状態です。
これを見た厲王は嫌になってしまい「後はお前らが勝手にやれバカ!」と考えて、彘に隠居してしまった説です。
日本で言うと室町幕府の足利義政みたいな状態と言えます。
さらに、大臣達に「俺が暴虐だから追放したとか、そういう風にしておけ」と命じたかも知れません。
あとは「ほっといてくれ!」という状態です。
そして、彘に出奔した厲王は遊女たちと遊んで暮らしていたわけです。
大臣の一人が厲王の様子を見にいったら、女たちと戯れているばかりです。
それを見た大臣の一人が「お前!なんて羨ましい事しているんだ!」と嫉妬して、周に戻ると「厲王は暴虐でした」と報告したのかも知れませんが・・・。
厲王が暴君になった理由
暴君になる一つのパターンが真面目に政務を行っているのに、思った様にいかないパターンです。
三国志の呉の最後の王である孫晧や、日本の室町幕府の足利義教も元は真面目な君主だった話があります。
しかし、真面目にやっていても状況は好転しませんし、そういう状態が続くと人は暴君になるとも言われています。
同じ事が周の厲王にもあり、最初は積極的に政務を見ていましたが、諸侯は言う事を聞かないし、心にくるものがあり暴君になったしまった説です。
ただし、周の厲王の幸運な所は、彘に逃亡はしましたが殺されなかった事でしょう。
厲王が逃亡しても変わらなかった周
厲王が逃亡すると、周は共和と言われる時代に入ります。
王が不在で大臣達が共に政治を行ったとされています。
それにも、様々な説があり共伯和なる人物が政治を行ったとか、共伯和が衛の武公だとか様々な事が言われているわけです。
周は宣王の時代になると、治世の前半は周が中興されたような事が記録に残っています。
しかし、金文をみると宣王の時代に周が復興した形跡がみえないわけです。
相変わらず王朝内で権力闘争をしているようにしか見えません。
それを考えれば、当時の周は再興するのがかなり難しかった状態なのではないでしょうか?
自分の中では、厲王はそれほど暴虐な王様では無かったのではないか?と考えています。
ちなみに、宣王の次の幽王の時代に西周王朝は犬戎の一撃により滅びています。
周の幽王のオオカミ少年的行為は本当にあったのかは不明です。
史書にははっきりと書かれているんですけどね。