周の昭王のお話です。
三国志の馬謖は山頂に陣を構えて大敗した事から、山登りが得意だとみなされて「Mrハイキング」とも呼ばれているそうです。
それに対して、周の昭王は水中に入った事で有名な王なので、「Mrスイマー」と名付けられても良さそうなのですが、余りにもマイナーな王様なので、呼ばれないのでしょう・・。
今回は、Mrスイマーこそ、周の昭王を紹介します。
ちなみに、周王朝の4代目の王様です。
尚、金文、竹書紀伝、史記、帝王世紀などの文献を参考に書いています。
周王朝が、諸侯の力を上回っていた時代を西周王朝と呼びますが、謎が深いと感じています。
史記の周本紀の昭王
司馬遷が書いた史記の周本紀における昭王の記録ですが、簡単な記事があるだけです。
余りにも簡単すぎて、全文を載せる事が可能です。
「康王が亡くなった。子である昭王瑕が即位した。王道がやや衰えた。昭王は南方に巡狩して帰らなかった。長江で亡くなった。」
記事としては、たったのこれだけしかありません。
それでも、周本紀では孝王や夷王のように亡くなった事と即位した事しか記載がない王もいるわけで、それを考えればまだ記録が残っている方と言えるかも知れません。
王道がやや衰えたとあるので、昭王の頃になると周王室の力が弱まり大臣の力が強くなったのかな?とかそういう雰囲気もします。
さらに、南方に巡狩したという記述を見る限りでは平和な世の中を想像してしまうかも知れません。
巡狩というのは、世の中が平和に治まっている時に、王様が直々に天下の視察に訪れて、善人を表彰して悪人を処罰する旅を指すからです。
チャンバラで有名な水戸黄門のさきがけのような存在だと思えばよいでしょう。
長江で亡くなったとあるので、これを見ると旅の途中で亡くなったようにも読み取れるわけです。
しかし、実際のところは厳しい南征だったようです。
管仲の言葉と呂氏春秋・帝王世紀・竹書紀年の記録
春秋戦国時代には春秋五覇と呼ばれる人物がいて天下をまとめていました。
最初の覇者である斉の桓公は、宰相である管仲と共に楚に遠征しています。
その時に、楚の成王は桓公に「なぜ私の国を侵すのか」と聞いているわけです。
それに対して斉の宰相である管仲が二つの件を楚の成王に伝えています。
・楚が決められた貢物を周王朝に届ける義務があるが果たしていない事。
・もう一つが周の昭王が南征したが帰還されなかった事
楚の成王は貢物は届ける約束をしましたが、周の昭王が南征して帰らなかった件は「漢水に問うて欲しい」と答えています。
これを考えると、周の昭王は漢水で楚と戦ったが敗死したように読み取れます。
世の中が平和だから、巡狩して亡くなったわけでもないと言う事です。
さらに、帝王世紀の記述によると、周の昭王の南征をにくむ者があり「にわか」ではりつけた船に乗せてしまいます。
それに気が付かずに昭王は乗ってしまいますが、「にわか」の部分が溶けてしまい昭王は水中に落ちて亡くなったと言うのです。
つまり、巡狩して亡くなったわけではなく、戦争に行って亡くなった事になっています。
しかし、呂氏春秋では水の中に落ちた昭王を、辛余靡(しんよび)なる者が救出しています。
これを考えると楚軍と周の昭王は水上で戦ったようにも思えるわけです。
尚、戦国時代の魏の襄王のお墓から見つかった竹書紀年によると、周の昭王が楚を攻めたのは、昭王の16年で漢水を渉ったとあります。
そして、昭王の19年に「六師を漢に喪う」と記載があるのです。
これを考えると、周の昭王の19年に楚と漢水で戦って大敗して、昭王も亡くなったと考えるのが正しい気もします。
楚軍との戦いで戦死した可能性も十分に考えられます。
この大敗があった事が史記の周本紀にある「王道がやや衰えた」と符合するように思えるわけです。
金文の周の昭王
金文はこのブログでは、度々登場しますが、一次資料として非常に優れたものだと私は感じています。
昭王についても金文に記録が残っています。
昭王は即位すると南方に巡狩したようです。
しかし、南方が反乱を起きて周に深く攻め込んできます。
昭王は反乱を撃退して、さらに反乱を起こした国の首都を囲んだ記録があります。
この即位元年の戦争に関しては、昭王が勝利をしたようです
さらに、昭王の南征は成果を上げて東夷26邦を従わせる事に成功しています。
この時に、過伯、伯辟父、伯雍父などの活躍が金文に示されています。
ただし、昭王がどのようにして死んだかについては記載がなく分かりません。
金文などに残すのは、自分にとって都合の悪い事は残さないのでしょうか?
しかし、周の昭王は謎が多いです。
ただし、「昭」が付く人物は国を発展させた人物が多く暗君ではなかったのではないか?とも感じます。
周の昭王の年齢の謎
周の昭王の年齢の謎ですが、周の康王の子という事になっています。
昭王の子が穆王です。
周の穆王が即位した時の年齢に関していくつかの記載が書物にあります。
それによると、55歳とか50歳などの説が多いわけです。
周の昭王の20歳の時の子が穆王だとしたら、周の昭王は70歳まで生きて戦場に行き戦死した事になります。
さらに、穆王は在位50年以上とする記録が大半です。
それを考えると穆王の年齢は100歳を超えてしまいます。
もし、周の昭王が即位して19年で楚との戦争で亡くなったとしたら、昭王もかなり高齢で即位した事になるはずです。
そうなると、昭王の父親である康王も長寿だったと考えられます。
そうなると、康王は何歳まで生きたんだ??という話になるわけです。
周の穆王は昭王の子ではなく、康王の弟だとかそうした方が年齢的に合うのかな?とも考えてしまいます。
常識的に考えて年齢が上手く合致しないのも、西周王朝時代の難しい所でもあります。
戦争ばかりの西周王朝
西周王朝を見てみると金文などでも外征をしきりに行っている事が分かっています。
西周王朝の初代君主である武王は殷の紂王を倒した後に「兵を用いない事を誓った」とあります。
しかし、西周王朝をみるとしきりに戦争ばかりしているわけです。
周の武王の子である成王の時代にも、武庚が反乱を起こすなど三監の乱も起きています。
康王の時代だけは平和だったような感じもしますが、子である昭王の代には南征を行っていますし戦いの記録も多いです。
周の穆王は西方の遠征を行っていますし、それを考えると西周王朝には平和な時代が見当たりません。
それを見ると、武王の兵を用いない事を誓ったと言う言葉に対して、「戦争ばっかりしてるじゃん!」とツッコミを入れたくもなります。
正直な話、西王朝は謎が深すぎてしまって、考えたりすると、頭が痛くなり混乱してくる次第です・・・涙