習授は曹操に仕えた人物です。
習授は正史三国志の注釈である『呉書』によれば、南陽郡の出身だった話があります。
習授は婁圭の不用意に述べた言葉を曹操に告げた事により。婁圭は命を落とす事となりました。
ただし、曹操は婁圭の能力を認めながらも、内心では嫌っていた可能性もあり、習授の言葉はきっかけに過ぎなかった可能性もあるでしょう。
今回は策士・婁圭が命を落とす原因となった習授の解説をします。
曹操の威光
習授と婁圭が同じ車に乗っていた時に、曹操の一行と出会う事となります。
婁圭と習授が同じ車に乗っている事から、婁圭と習授は友人の関係だったのかも知れません。
習授が曹操を見ると、次の様に述べました。
習授「父と子が揃ってかようであるとは、なんと素晴らしい事なのだろうか」
習授の言葉には「父と子」とあり、曹操が自分の子らと一緒におり、立派な服でも着て習授から見れば、曹操に威光を感じ羨望のまなざしで見てしまったのでしょう。
尚、曹操は親子でいた事になっていますが、子が曹丕なのか、曹植なのか曹彰なのかははっきりとしません。
ただし、この時は既に潼関の戦いが終わっており、潼関の戦いの前に亡くなった、曹操の子で天才少年の曹沖ではなかったはずです。
婁圭の一言
習授の曹操への言葉に対し、婁圭は次の様に答えました。
婁圭「この世界で生きているのであれば、自分でそうなればよいのだ。
それをただ眺めているだけしか出来ぬとは」
婁圭は曹操に対し、憧れの目でしか見れない習授の言葉に嘆いたのでしょう。
婁圭は過去に英雄になりたかった話があり、なれなかった自分に対しての戒めの言葉でもあった様にも感じました。
この時の婁圭の気持ちは、司馬遷が書いた史記の、管晏列伝における晏嬰の御者の妻にも、似た様な気持ちだったのかも知れません。
婁圭の言葉に対し、習授がどの様な受けごたえをしたのかは分かりません。
しかし、習授の言葉を習授は曹操に告げてしまったわけです。
婁圭の最後
習授の言葉を聞いた曹操は問題視しました。
婁圭の「自分でそうなればよい」の言葉は、曹操からしてみれば謀反を起こして、曹操に成り代わろうとする為の言葉でもあったからでしょう。
習授の告げ口により、婁圭は処刑される事になったわけです。
婁圭は馬超や韓遂との戦いでは氷城の計を進言するなど、策士として名が通っていた人物だと言えます。
しかし、不用意な発言で命を落としてしまったと言えるでしょう。
習授の事に関して分かっている事は婁圭の逸話位で、分かっている事は殆どありません。
しかし、習授と婁圭の関係が友人であるなら、習授は酷い人間にも見えます。
ただし、正史三国志の崔琰伝には下記の記述も存在します。
「魯国の孔融、南陽の許攸、婁圭は昔の関係をたのみ、不遜な態度を取り処刑された」
上記の記述から、曹操は婁圭の態度を既に嫌っており、処分したいと思っていた可能性も高いです。
婁圭を処分したいと思っていた所に、習授の言葉が届き婁圭は処刑されたとも言えるでしょう。
婁圭には野心があったわけであり、曹操にしてみれば危険人物として認識していたのかも知れません。