三国志 魏(三国志)

王忠は飢餓に苦しみ人肉を食べる

2022年5月12日

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名前王忠(おうちゅう)
生没年不明
時代後漢末期、三国志
勢力曹操
年表199年 劉備に敗れる
コメント人肉を食べた記録がある
画像三国志(コーエーテクモゲームス

王忠は魏略によれば、司隷扶風郡の人だとあります。

王忠は役人となりますが、飢えに苦しみ人肉を食べた逸話が残っています。

しかし、婁圭から兵士を奪うと、曹操に帰順し出世していく事となりました。

曹操が魏公となる話が出た時には、受諾する様に要請した臣下の中に王忠の名も見えます。

ただし、王忠は劉岱と共に劉備と戦った時は敗れていますし、呉質と曹真の逸話では、曹洪と共によく分からないフォローを行い曹真を怒らせています。

それらを考えると、ユニークな逸話がある人物ではありますが、王忠は機知に富んだ人ではなかったのかも知れません。

尚、孔融、袁譚、曹操に仕えた王脩の子に同名の王忠がいますが、明らかに別人であり、ここでは人肉を食べた事で有名な王忠を解説します。

人肉を食べる

先にも述べた様に王忠は司隷扶風郡であり、若かりし頃は亭長になった話があります。

後漢末期は社会不安が増大し張角が太平道を率いて黄巾の乱を起こしたり、政局の混乱から何進が宦官によって殺害され、袁紹が宦官を皆殺しにし董卓が実権を握るなど混乱した世の中だったわけです。

こうした中で飢饉が勃発するなど食料不足となり、王忠は人肉を食べて飢えをしのぐ事となります。

正史三国志の注釈・魏略にも次の記述が存在します。

「三輔が動乱に陥った時に、王忠は飢えに苦しみ人肉を食べた」

王忠は亭長をやっており、役人であったにも関わらず、食料がなく飢えに苦しんだと言う事なのでしょう。

現代人の感覚では「人肉を食べるなんてありえない」と思うかも知れません。

しかし、戦国七雄が戦った時代に長平の戦いで敗れた趙が、の大軍に首都邯鄲が包囲され、邯鄲城内では子供を交換し人肉を食べた話しもあります。

劉備が呂布に裏切られた時も、劉備軍は食料が不足し、劉備軍の内部で共食いを始めました。

それを考えると、王忠が人肉を食べたと言うのも、特殊な事でも無かったのでしょう。

婁圭から軍を奪う

人肉を食べた王忠ですが、次の記述があります。

「仲間を連れて南方の武関に向かった」

王忠が南方の武関に向かった理由は詳しくは書かれていません。

しかし、人肉を食べて飢えを凌いでいた事を考えると、食料を求めて武関方面に向かったのでしょう。

この時に荊州では劉表の後ろ盾を得た婁圭が、北方からの人々を受け入れていました。

婁圭には野心があり、多くの兵を得たいと考え、北方の人々を受け入れていたのでしょう。

王忠は婁圭に従うつもりは全くなく、婁圭との戦いを選択します。

婁圭は後年には馬超との戦いで氷城の計を提案するなど、策士として名が通る事になりますが、この時は王忠に急襲されて敗れ去りました。

王忠は婁圭から軍需物資を奪い千人ほどの兵士を得た事で、曹操に帰順しています。

曹操の方でも兵が欲しかった事もあり、王忠を喜んで受け入れたわけです。

曹操は王忠を中郎将に任命し、征伐の際は連れて行ったとあります。

髑髏の鞍

王忠が過去に人肉を食べた話しを、五官将の曹丕が耳にする事になります。

曹丕は面白半分に従者に命じ、墓場の髑髏を持って来させ、王忠の鞍に結び付けさせました。

曹丕は王忠を笑いの種としたわけです。

曹丕の態度に対し、王忠がどの様に思ったのかは記録がなく分かっていません。

しかし、曹丕の態度を見るに、王忠は親しみやすい人間であり、曹丕のお気に入りだった可能性もあるでしょう。

ただし、曹丕に関して述べれば、夏侯尚の愛妾を殺害したり、関羽に降伏し最終的に魏に帰って来た于禁に対して、辱める様な石物を造った逸話があります。

それらを考えると、曹丕はサイコパス的な部分もあり、そうした曹丕の性格が王忠にも発揮された様にも感じました。

劉備に敗れる

袁術は西暦196年に仲王朝を建国しますが衰亡し、袁紹の子である袁譚と合流しようとしました。

北に向かう袁術に対し、曹操は劉備に朱霊や路招を付けて徐州に向かわせます。

劉備は過去に陶謙から、徐州牧の位を譲られた事もあり、徐州愛が強かったのか、袁術が病死すると朱霊や路招を都に返し、徐州刺史の車冑を斬り反旗を翻しました。

劉備は孫乾を派遣し、袁紹と誼を結ぶ事に成功します。

曹操は王忠と劉岱に命じ、劉備討伐を決行しました。

しかし、劉備の用兵は巧みであり、劉岱や王忠は劉備に敗れています。

献帝春秋によれば、王忠らを破った劉備は、次の様にも述べました。

劉備「お前たち(王忠、劉岱)が100人やって来ても、儂をどうする事も出来ぬであろう。

曹公(曹操)自身が来れば、別だがな」

劉備の言葉から王忠や劉岱は、劉備に呆気なく敗れてしまったのでしょう。

曹操は袁紹との官渡の戦いが迫っていましたが「劉備を放置するのは禍となる」と考えた様で、自ら兵を率いて劉備を攻撃しました。

曹操は王忠や劉岱の尻ぬぐいとも言える行動を取り、見事に劉備を撃破します。

劉備は関羽や妻子も置き去りにし、北方の袁紹の元に逃亡しました。

曹操の魏公就任

曹操は213年に魏公に就任しています。

曹操は魏公就任に対し、形式的に断りますが、群臣達が魏公になる様に要請した話があります。

曹操に魏公就任に対して大臣達が連名書を出しますが、この中に「楊武将軍・都亭侯の王忠」の名前が存在します。

曹操が魏公に就任に対し、反対の立場を取る者もいましたが、王忠は荀攸や鍾繇らと共に賛成の立場だったのでしょう。

曹操は魏公に就任しました。

尚、曹操の魏公就任に対し、賛同した人物の一覧は下記の通りです。

荀攸鍾繇涼茂毛玠劉勲劉若
夏侯惇王忠劉展鮮于輔程昱賈詡
董昭薛洪董蒙王粲傅巽王選
袁渙王朗張承任藩杜襲曹洪
韓浩曹仁王図万潜謝奐袁覇

意味不明なフォロー

曹操が亡くなると、曹丕が後継者となります。

曹丕は220年に献帝から禅譲という形で、皇帝に即位しました。

曹丕の時代である224年に呉質の宿舎に魏の高官たちが集まり、宴を催した事があります。

この中に太っていた曹真と痩せていた朱鑠がいました。

呉質は役者に命じ太っている事と痩せている事を、面白おかしく話をさせます。

曹真は自分の事を馬鹿にされていると思い、声を荒らげ激怒しました。

この時に、驃騎将軍の曹洪と軽車将軍の王忠が、次の様に述べた話があります。

曹洪・王忠「将軍(呉質)が上将軍(曹真)を太っていると言うなら、自身が痩せていると言う事を証明すべきだ」

曹洪と王忠はフォローになっているのかも分からない様な、発言をしたわけです。

これにより曹真はさらに激怒し、呉質と曹真の口喧嘩から朱鑠に飛び火するなどの宴となってしまいました。

宴会の席とは言え、王忠や曹洪のフォローは上手くは行かなかったと言えるでしょう。

これらの発言から、相手にあった適切なフォローを行える適切な人物ではなかった事が分かります。

王忠ですが、これが最後の記録であり、この後にどうなったのかは分かっていません。

王忠の能力値

三国志14統率44武力57知力21政治27魅力20

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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