曹沖(そうちゅう)の字は倉舒であり、曹操の子の中で最も賢かったと言われる人物です。
三国志きっての天才少年と呼んでも差し支えないでしょう。
曹沖は年少であっても理解力があり、成人と変わらない智慧があったと伝わっています。
曹沖は容姿端麗で徳もあり曹操から可愛がられ、自分の後継者にしようと本気で考えていた話すらもある程です。
ただし、曹沖は13歳で亡くなってしまい、早世の天才とも言えます。
後に曹操の後継者となり魏の皇帝になる曹丕は「曹沖が生きてたら自分は後継者になる事が出来なかった」と述べた話しもあり、天才ぶりを伺う事が出来ます。
個人的には曹沖は徳がある人物で、生きていたとしても曹丕に皇帝の位を譲った様に感じています。
今回は、曹沖が生きていたらどうなったのか?も予想してみました。
尚、曹沖の異母兄には曹丕、曹彰、曹植などがおり、同母弟に曹據や曹宇がいたと伝わっています。
今回は正史三国志をベースにして、曹沖を語ってみたいと思います。
因みに、作家の宮城谷昌光氏の本の中で「重耳」は知らなくても、中国人の小学生なら「孔融」「曹沖」「司馬光」は知っていると述べた話があります。
曹沖称象
ある時、孫権が曹操に象を送ってきた事がありました。
曹操は象の重さがどれ位あるのか、知りたいと思い臣下たちに問うたわけです。
しかし、臣下の中には誰一人として答えられる者がいませんでした。
曹操の臣下には荀彧、荀攸、郭嘉、賈詡、程昱など名だたる知恵者がいたはずですが、こういう問題は苦手だったのかも知れません・・。
曹操の群臣が誰も答える事が出来ない中で、曹沖は次の様に答えています。
曹沖「象を大きな船の上に置き、水位の場所に印をつけます。
それと見合う重さの物を載せれば、計算して大体は分かるのではないでしょうか。」
曹沖の話を聞いた曹操は喜び、直ぐに実行しました。
曹沖の象の重さを計る話を聞いただけでも、曹沖の優秀さが分かるはずです。
尚、曹沖の象の重さを計った話から、曹沖は浮力によるアルキメデスの原理を知っていたのではないか?とする説が存在します。
アルキメデスは紀元前200年よりも少し前の人物なので、アルキメデスの話が中国まで伝わっていた、可能性もあるのかも知れませんが真実は不明です。
曹操の鞍
当時は軍事・政治と事件が多くあり、刑罰が重かった話があります。
こうした中で、倉庫に置かれていた曹操の馬の鞍がネズミにかじられてしまったわけです。
倉庫の役人たちは、死刑にされるかと思い青ざめてしまいます。
役人たちは、手を後ろに縛り自首しようかとも考えましたが、それでも死刑になるだろうと心配していました。
これを見た曹沖は、次の様に述べています。
曹沖「3日間待って、その後に自首してください。」
役人たちは不思議に思いましたが、曹沖の意見に従う事にしました。
曹沖は剣で自分の衣服をネズミが齧った様に穴を開けます。
そうした上で、不安そうな顔をして曹操の前に現れました。
曹操が曹沖の顔色が悪い事を気にし、理由を問うと曹沖は次の様に答えています。
曹沖「世間ではネズミが衣服をかじると、衣服の持ち主に不吉な事が起きると言われています。
私の衣服は鼠にかじられてしまい、穴が開いてしまいました。
その為に、私は心が沈んでいるのでございます。」
曹沖の話を聞いた、曹操は次の様に答えています。
曹操「それは世間のいい加減な噂に過ぎぬ。気にする事はない。」
この後に、倉庫の役人たちが曹操の馬の鞍がネズミに齧られたと報告に来たわけです。
曹操は笑って次の様に答えます。
「子供の衣服は側においてあってもネズミにかじられるものだ。
馬の鞍は柱に掛けるものである。ネズミにかじられても不思議ではない。」
曹沖の機転により、倉庫の役人たちは罪を一切問われなかったわけです。
人を庇う
魏書によれば、刑罰に該当する者を見るたびに、曹沖は無実の事情を探し出し、こっそりと処置した話があります。
さらに、真面目な官吏が過失の為に罪に触れた場合は、曹操に許しを請い助けた話があります。
曹沖は天性の判断力と仁愛の徳を、兼ね備えていたと伝わっています。
正史三国志には曹沖のお陰で罪が赦された者は、数十人いたと伝わっています。
曹操は曹沖の聡明さを気に入り、群臣たちの前で何度も曹沖を褒め称えた話がある程です。
曹操は曹沖に後継者になって貰いたいと考えた話があります。
しかし、曹沖は若くして亡くなってしまう事になります。
曹沖の最後
西暦208年に曹沖は13歳になっていましたが、病気に掛かり病は重かったわけです。
西暦208年と言えば、曹操は北方を平定し終わり、荊州の劉表が亡くなった事から南下を始める時期となります。
この時期に、曹沖が病に掛かると、曹操は自ら曹沖の為に命乞いの祈りを捧げたと伝わっています。
因みに、曹操は過去に荀彧の制止も聞かず、名医の華佗を処刑した事がありました。
曹沖が病が重くなると、嘆息し次の様に答えています。
曹操「華佗を処刑してしまった事が残念だ。
その為に、むざむざと曹沖を死なせる事になってしまった。」
曹沖が病気になった時に、曹操は華佗を処刑してしまった事を後悔したわけです。
曹操の祈りも空しく、曹沖は13歳で亡くなる事になります。
鄧の哀王
曹操は曹沖が亡くなると、騎都尉の印綬を贈り、宛侯曹拠の子である曹琮に曹沖の跡を継ぐように命じています。
西暦217年に曹琮は鄧侯となり、221年には曹沖の諡号を追贈し、鄧の哀侯としました。
さらに、曹沖の爵号を追贈して鄧の哀公とした話があります。
魏の曹叡の時代である231年には、曹沖の爵号をさらに追贈され鄧の哀王としています。
これを考えると、曹沖は若くして亡くなりはしましたが、人々の心の中には生き続けていたのでしょう。
曹沖の死
曹沖が最後を迎えた事で、幾つかの逸話があるので紹介します。
邴原の娘との合葬
正史三国志や資治通鑑によると、司空掾・邴原の娘も曹沖と同じ頃に亡くなった事で、曹操は邴原に合葬したいと望んだ話があります。
これに対し邴原は、次の様に述べています。
邴原「合葬は礼に外れております。曹操様が私を用いる理由は聖賢の教えを守っているからです。
合葬は凡俗であり、そんな事をお考えになってはなりませぬ。」
邴原の進言により曹操は、曹沖と邴原の娘との合葬を取りやめた話があります。
冥婚
曹操は曹沖と邴原の娘との合葬は取りやめましたが、曹沖が亡くなった後も「あの世で寂しくはないか?」と思ったのか、曹沖と甄氏の娘を冥婚させた話があります。
曹丕の妻である甄氏の娘が同時期に亡くなっていた事もあり、曹沖に嫁がせるには最適と思ったのでしょう。
因みに、甄氏は袁紹の次男・袁煕の妻でしたが、美貌であった事から曹丕が妻として迎えた人物です。
亡くなった甄氏の娘も美しい容貌だった様で、曹操は曹沖にはピッタリだと考えたのでしょう。
尚、曹沖と甄氏の娘は、史上初の冥婚だとも伝わっています。
ただし、冥婚に関しては、一部で村々で風習があった話もあり、史上初ではないとする説もあります。
曹沖と曹丕
曹沖と曹丕にまつわる話は幾つかあるので紹介します。
不幸と幸運
曹沖が亡くなると、曹操は悲しみ曹丕は宥めようとすると、曹操は次の様に発言しています。
曹操「曹沖の死は儂にとっては不幸であるが、お前たち兄弟にとっては幸運だ。」
曹操は曹沖が亡くなった事で、曹丕に後継者としての道が開けたと言いたかったのでしょう。
ただし、この曹操の言い方は、曹丕ら兄弟に対する気配りが出来ていない様に感じました。
周不疑の死
曹沖同様に若くして才能を認められた話があります。
曹沖と周不疑はよき相手になるだろうと、曹操は考えていました。
207年に周不疑は16歳の若さで、曹操の白狼山の戦いに参加しており、曹操に献策し城を陥落させた話があります。
周不疑は非常に優れた人物でしたが、曹沖が亡くなると曹操は周不疑が疎ましく思い殺そうと考えます。
曹丕は曹操を諫めますが、曹操は次の様に述べています。
曹操「周不疑は曹沖なら使いこなす事が出来るが、お前(曹丕)が扱える人物ではない。」
曹操は周不疑に刺客を差し向けて、暗殺してしまいました。
曹操は曹沖絡みの話になると、酷い話が多いような気がします。
曹丕は皇帝になれなかった
曹丕は皇帝になった後に、次の様に語っていた話があります。
曹丕「兄の曹昂は自ずから限界があったが、曹沖が生きていたならば、儂は天下を支配する事は出来なかったであろう。」
この言葉を事実とするならば、曹沖が生きていたら曹操は後継者を曹沖に指名したと感じていたのでしょう。
尚、曹丕も後継者に指名されたのが、曹操の晩年であり、やきもきした気持ちもあったはずです。
因みに、曹丕は皇帝になると自分と曹沖の差を嘆いた手紙を発表しています。
曹沖が長生きしたらどうなったのか?
個人的な予想になるのですが、曹沖が長生きしたらどうなったのか?を予測してみました。
曹沖が長生きしたとしても、魏の皇帝は曹丕が即位した様に思います。
曹沖は徳があり、曹操に気に入られたからと言って、太子になるのは断ったように思うからです。
曹沖なら「一番上の兄が継ぐのが当然」と考える様に感じました。
曹沖は成人したら、春秋時代戦国時代の呉の季札の様な人物になるのではないでしょうか。
多分ですが、魏の安定に注力し、曹叡亡き後の司馬懿と曹爽の対立は防がれ、魏王の親政が続いた可能性もある様に思いました。
魏が司馬懿の一族に乗っ取られる事も無かった様に思います。
曹沖の様な人物が一族にいるのは、魏の安定に繋がる様に感じています。
曹沖の能力値
三国志14 | 統率21 | 武力14 | 知力80 | 政治76 | 魅力82 |