名前 | 鄭同(ていどう) |
時代 | 戦国時代 |
鄭同は戦国策・趙策に名前がある人物であり、趙の恵文王に「備え」の大切さを説いた人物です。
鄭同は諸子百家の一人であり兵家の遊説家として、当時では名を馳せた人物だった様に感じます。
ただし、鄭同に関して分かっている事はほぼなく、戦国策に僅かな記述が残るだけです。
しかし、鄭同が説いた事は「備えあれば憂いなし」と言った事であり、現代にも通じる事だとも言えるでしょう。
今回は趙の恵文王に軍備の重要さを説いた鄭同の解説をします。
尚、この鄭同と趙の恵文王の会談が、何年の事だったのかは記載がありません。
戦嫌いの王
鄭同は鄭の人だと考えられており、北方の大国である趙の恵文王に会う事となります。
鄭同は賢人として名が通っていた事もあり、趙の恵文王は「貴方は南方の博学の士だと聞いている。私にどの様な事をご教授してくれるのであろうか」と述べています。
鄭同は次の様に答えました。
鄭同「私は南方の草深き田舎の者であり、普通に考えればお尋ねに対し答える値打ちはございません。
しかし、趙王様は私を召し出してくれました。
お答えしない訳にはいきません。
私は若年の頃より、親から兵法を習いました」
鄭同は自分が兵法を知っていると述べたわけです。
しかし、趙の恵文王は戦いを好まず「私は戦が嫌いだ」と述べます。
恵文王の父親である武霊王は中山を滅ぼすなど「武」の人でしたが、恵文王は守成の名君と言った人物で在り、本当に戦いは好まなかったのでしょう。
恵文王の「戦嫌い発言」に対し、鄭同は手を打ち天を仰ぎ、笑って次の様に言いました。
鄭同「武器は知っての通り天下の狂器でございます。
私自身も趙王様が戦いを好まぬ事は推察しておりました。
私は同じように魏の昭王に兵法を説いた事がありますが、魏の昭王も「自分は戦が嫌いだ」と述べていたのです。
そこで私は魏王様に「許由の様になれますでしょうか?」と問うてから、許由は天下を治める必要がなく、許由は兵法を覚えなかったと言いました。
魏王様は先王から国を譲り受け宗廟を守り、領地を削られる事もなく、社稷の安泰をお望みではありませぬか。と問うてみました。
すると、魏王様は『儂はそれを望んでいる』と答えたのです」
鄭同は魏の昭王との話を引き合いに出し、王であれば国を守りたいと考えるのは、当然であり趙の恵文王も同じ事を考えていたはずです。
鄭同は兵法の大切さを語る前に、君主の望みをはっきりとさせました。
尚、ここで登場する許由は五帝の一人である堯の時代の人で、堯に天下を譲ると言われても、興味を持たなかった無欲の賢人と言った人物です。
備えあれば憂いなし
鄭同は趙の恵文王の願いをはっきりとさせた上で、次の様に述べました。
鄭同「現在、隋侯の珠や持丘の環など多数の財産を持ち、一人で野宿する者がいたとします。
この者に孟賁の威風、成荊や慶忌の胆力が無かったとします。
さらに、弓や弩の準備が無ければ、その夜のうちに危害を加えようとする者がいても、おかしくはないでしょう。
趙王様の国境には貪欲な国があり、王様の地を要求したとします。
理を述べても通じず、義を述べても耳を貸さないのであれば、武器も軍隊も無くどうやって対処するのでしょうか。
王様が軍隊を持たぬのであれば、隣国の目的が達成される事になります」
趙の恵文王は鄭同の話を聞くと納得し「私は貴方の考えを奉じようと思う」と述べました。
軍隊の備えが無ければ、隣国の侵攻を防ぐ事は出来ないと述べた事になります。
貪欲な秦が隣国にいるのに、軍隊を軽んじるのは愚かだと鄭同は言いたかったのでしょう。
尚、趙の恵文王は武を貴ぶ人ではありませんでしたが、廉頗、藺相如、趙奢、平原君らに支えられ領土は多少は減りましたが、国をよく守った君主だと言えます。
恵文王は戦争は嫌ったかも知れませんが、鄭同の述べた事はよく理解した事でしょう。
正に備えあれば憂いなしと言う事です。