春秋戦国時代

平原君は失敗と挽回の人だった

2022年7月6日

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宮下悠史

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名前平原君(へいげんくん) 本名:趙勝
生没年生年不明ー紀元前251年
勢力
コメント聞く力を持っている
画像三国志(コーエーテクモゲームス

平原君は戦国四君の一人であり、本名は趙勝です。

平原君はの英雄的な君主であり胡服騎射の改革で有名な武霊王の子で、趙の恵文王の弟にあたる人物です。

同じく戦国四君に数えられる孟嘗君信陵君春申君と同じように、三千人を超える食客を集めた人でもあります。

戦国四君の中では平原君が一番評価が低い様に思います。

しかし、個人的には平原君が戦国四君の中では一番まともな最後を迎えていますし、平原君は失敗と反省の人だったとも言えます。

史記の平原君虞卿列伝の最初の方に、次の記述が存在します。

「平原君は趙の恵文王と孝成王の世に宰相であったが、その地位を去った事が三度、宰相に復帰したのも三度だった」

この記述から平原君は何度も趙の宰相の座を去ったが、何度も宰相に復帰した事が分かるはずです。

平原君は趙の孝成王の時代に、長平の戦いで大敗北を喫し評価を著しく下げましたが、邯鄲籠城戦では趙をまとめ見事に守り切ったと言えます。

尚、戦国四君の中で平原君は唯一、他の戦国四君全員とコンタクトを取った記録があります。

孟嘗君に一県を破壊される

司馬遷が書いた史記の平原君虞卿列伝を見ると、平原君・趙勝は諸公子の一人であり、最も賢かったとあります。

さらに、平原君は賓客を好み、集まった賓客の数は三千にも達したとあります。

この記述から平原君は他の戦国四君と同様に、多くの食客を養っていた事が分かるはずです。

平原君は東武の城に封ぜられたと記載があり、領地も持っていたのでしょう。

平原君が東武の城に封ぜられた頃の逸話として、次の話が史記の孟嘗君列伝にあります。

※史記 孟嘗君列伝より

孟嘗君の一行が趙を通過すると、趙の平原君は賓客として迎えた。

趙の人々は孟嘗君の賢明さを伝え聞いており、戸口から孟嘗君を見たが、笑って次の様に述べた。

「孟嘗君は立派な姿をしていると思っていたが、実際には小男に過ぎなかった」

の民衆が孟嘗君の姿を見て笑った事に孟嘗君は激怒し、食客達が数百人の民衆を斬り殺してしまい、一県を滅ぼし孟嘗君は立ち去りました。

孟嘗君は県を一つ滅ぼしてしまったわけですが、直前で平原君が賓客として迎えた話があり、平原君が治める県の一つを孟嘗君が破壊してしまった事になるのでしょう。

尚、この時の孟嘗君は紀元前299年に秦の昭王に招かれ、に行った帰りだったとされており、平原君の若かりし頃だったとも言えるはずです。。

平原君が亡くなったのが紀元前251年であり、年齢的に考えると、青年期の平原君だった様に感じました。

尚、一県を滅ぼされた平原君が孟嘗君に復讐したなどの話もなく、この話は創作ではないか?とも考えられています。

美女よりも士を優先

史記によれば平原君の家は、二階が民家に面しており、近くに足が不自由でびっこを引いた男がいたわけです。

平原君の妾の一人が、びっこの男を見かけると、多いに笑いました。

足の不自由な男は妾に笑われた事で、プライドを傷つけられ、平原君の前に行き、次の様に述べています。

「私は貴方が士を好む方だと聞いております。

士が千里の道を遠いとせずやって来るのは、貴方が士を尊び、女を卑しむ気持ちがあると思っているからです。

私は不幸にして足に病がありますが、貴方の後宮の妾が二回から私を見下ろし、私の姿を見て笑いました。

願わくば、私を笑った妾の首を頂きたいと存じます。」

ここで平原君は「分かった」と述べ快諾したわけです。

しかし、平原君は妾を処分するつもりはなく、足が不自由な男が帰ると、次の様に述べました。

「あの足が不自由な男は、笑われた位で、我が美人を殺害しようとは、無法にの程がある」

平原君は妾を殺さなかったわけです。

しかし、その後に平原君の食客は次々と平原君の元を去り、ついには半分にまでなってしまったわけです。

平原君は不思議に思い残った食客たちに尋ねます。。

平原君「私はあなた方に対し礼を失った事も無いのに、なぜ私の元を去ってしまったのだろう」

平原君の食客は次の様に答えました。

食客「貴方は足の不自由な男の願いを叶え、美人の妾を殺害しようとしませんでした。

貴方の態度を見て、士はこの人は女色を求め、士を卑しんでおられると感じたからです」

平原君は食客の言葉を理解し、美人の妾の首を斬り足の不自由な男に差し出し、詫びる事にしたわけです。

すると、食客達は再び平原君の元に集まってきました。

後に信陵君との逸話もありますが、平原君の食客は任侠や義を好む人が多かったのかも知れません。

孟嘗君の所とは食客の毛並みが違う様な感じがします。

失敗しても素直に聞く耳を持っており、挽回するのが平原君なのでしょう。

こうした態度は、ここから先にも多々見受けられます。

趙奢を推挙

廉頗藺相如列伝に平原君と趙奢の逸話があります。

趙奢は税務の役人であり、税金の取り立てを行っていましたが、平原君に家では平原君の威を頼みとし、税金を納めませんでした。

趙奢は法律に基づき、平原君の家来九人を処刑してしまいます。

平原君は激怒し、趙奢を呼び寄せ殺害しようとしますが、趙奢が平原君を理論で以って諭しました。

平原君は怒りながらも、趙奢の話をしっかりと聞いており、趙奢の能力の高さを認め、兄の恵文王に推挙したわけです。

この趙奢が後に将軍となり、閼与の戦いで秦の胡傷を大破する事となります。

趙奢は平原君がいなければ、出世する事も歴史に名を残す事も無かったのかも知れません。

魏斉を助け秦への人質となる

平原君の兄である趙の恵文王が亡くなると、趙の孝成王が即位しました。

この時に秦の宰相の范雎は、の宰相である魏斉に深い恨みを持っていたわけです。

范雎は魏斉に復讐をしようと考えており、秦の昭王は范雎の復習の手助けをします。

魏斉は范雎が復習しようと画策している事を知ると、魏を去りの平原君の元に向かいました。

平原君なら匿ってくれると魏斉は考えたのでしょう。

秦の昭王は范雎の仇である魏斉が平原君の元にいる事が分かると、平原君の高義を慕っていると述べ、秦で10日間飲食を共にしたいと手紙を送りました。

平原君は秦を怪しみ恐れながらも、秦の首都・咸陽に行き秦王と面会する事となります。

秦の昭王は「自分にとって宰相の范雎は、周の文王における呂尚、斉の桓公における管仲に匹敵する人物だと述べ、魏斉の首を平原君に要求しました。

平原君は、次の様に答えています。

平原君「貴い時に友として交わるのは、賤しくなった時の事を考えてであり、裕福な時に友として交わるのは、貧しくなった時の為でもあります。

魏斉は私の友人であり、例え私の所にいたとしても、友である以上は差し出す訳には行きません。

さらに言いますが、魏斉は私の所にはいないのです」

平原君は秦の昭王の圧力に屈する事はなく「魏斉は自分の所にはいない」としらを切った事になります。

秦の昭王はさらに、趙王に手紙を送り「魏斉を差し出さなければ、平原君は函谷関から出られない」と脅しました。

趙の孝成王は平原君の屋敷を囲みますが、魏斉はいち早く察知し、虞卿と共に魏の信陵君の元に逃亡しています。

魏斉は信陵君に助けを求めますが、信陵君が会うのを躊躇し、侯嬴の言葉を聞き漸く魏斉を迎える決断をしました。

魏斉は信陵君が直ぐに合わなかった事で絶望し、自刃してしまいます。

趙の孝成王は魏斉の首を探し出し、秦に送った事で平原君は漸く解放されました。

秦に人質になっている状態にも関わらず、口を割らなかった平原君は友人想いな人物とも言えるでしょう。

長平の戦いで大敗北を招く

紀元前262年に秦がを攻撃し、韓の野王を秦の白起が陥落させています。

これにより、韓の領土が南北に分断されてしまったわけです。

韓の首都である新鄭は南部にあり、北部の上党郡は孤立しました。

上党郡の太守である馮亭は、上党を秦にくれてやるよりもに入れたいと考えます。

韓の首脳部は既に秦の宰相・范雎に上党を秦に割譲する約束をしていましたが、馮亭は趙と協力し、上党を秦から守ろうと画策したわけです。

この時に趙の平陽君は「上党郡を受け取れば秦の矛先が、趙に移るから受けない方が良い」と述べました。

平陽君の意見に対し平原君と趙禹は、次の様に意見します。

平原君・趙禹「百万の大軍で攻めて年を超えても、一つの城すら手に入らない事もあるのです。

現在、座したままで十七の城を得られるのは、国家の大きな利益となります。

この機会を逃してはなりません」

趙の孝成王は、平原君と趙禹の意見に従う事にしました。

趙の孝成王は平原君を馮亭の元に派遣し、上党郡を受け取らせたわけです。

因みに、馮亭は平原君と会った時に、涙を流した話があり、馮亭に取ってみれば心にくるものがあったのでしょう。

しかし、平陽君の指摘した通りに、秦は趙に攻撃を仕掛け、戦国時代最大の戦いとも呼ばれる長平の戦いが勃発しました。

長平の戦いは最初は趙の名将・廉頗と秦の王齕が対峙していましたが、秦側の流言もあり趙は将軍を廉頗から趙括に変更し、秦も王齕から白起に変更しています。

尚、廉頗が更迭され趙括が将軍になる事に対し、藺相如は反対した話がありますが、平原君が反対した話はありません。

それを考えると平原君は、趙括を評価していた可能性もある様に感じました。

長平の戦いですが、趙括は白起に大敗北を喫し、趙は45万もの兵を失ったと記録されています。

長平の戦いの敗因として、平原君が趙の孝成王に上党郡を受け取る様に進言した事が、原因と考える人もいます。

司馬遷も「馮亭の事で論争したのは正しき事ではなかった」と述べ、平原君を非があった様な書き方をしています。

邯鄲籠城戦

魯仲連と新垣衍

長平の戦い後に蘇代が范雎を説得した事で、一度は和睦しますが、は再びを攻撃しました。

これにより邯鄲籠城戦が起こり、平原君は苦しい立場に立たされます。

趙は長平の戦いで大敗北を喫した事もあり、趙が単独で秦に勝つのは難しい状態だったわけです。

趙はに援軍要請すると、魏の安釐王は晋鄙を派遣しますが、晋鄙は趙との国境である鄴に留まり動こうとはしませんでした。

晋鄙が動かなかったのは、魏の安釐王が秦の矛先が自分に向かう事を恐れた為です。

魏の安釐王は新垣衍を平原君の元に派遣し「趙王が秦を帝として尊べば秦は兵を退く」と言わせようと考えました。

平原君はこの時に、自信を失っていた様で新垣衍の言葉を聞いても、決しかねていました。

この時に、邯鄲の城内に賢人・魯仲連がおり、平原君に「どうするのか?」と問いました。

平原君は、次の様に答えています

平原君「私に何か物を言う資格があろうか。

長平の戦いでは40万の兵を外で失い、趙の首都・邯鄲を包囲されても秦軍を撃退する事も出来ない。

魏王は客将の新垣衍を趙に派遣し、秦を帝として尊称しようとしておる。

新垣衍は邯鄲にいるが、儂に何を言う資格があろうか」

この言葉からは平原君が長平の戦いでの敗北に責任を感じ、自信を無くしている事を伺い知る事が出来ます。

魯仲連は「平原君の事を賢人だと思っていたが、賢人では無かった事が分かった」と述べ、自ら新垣衍を追い払うと述べました。

平原君が魯仲連と新垣衍を無理やり合わせ議論させると、新垣衍は魯仲連の言っている事が正しいと悟る事になります。

邯鄲籠城戦ですが、魯仲連の言葉により趙は一致団結し、秦軍と戦う事が決定したのでしょう。

魯仲連の話を聞いた秦軍は、趙が降伏しない事を悟り、陣を五十里後方に下げた話があります。

自信を無くしていた平原君ですが、魯仲連の言葉で覚醒したのか、懸命に防備に務める事になります。

魯仲連は凡将となってしまった田単を覚醒させた話もあり、賢人と呼ぶに相応しい人物だと言えるでしょう。

余談ですが、邯鄲籠城戦が終わった後に、平原君は魯仲連の功績を認め封じようとしましたが、魯仲連は褒賞を受けずに去っていきました。

楚の援軍

趙の孝成王は、に援軍を求め平原君を派遣する事にしました。

楚は頃襄王の時代に、首都の郢を落とされ奪還出来ないなど、秦に対しては後手に回るなど、楚は秦を多いに恐れている状態だったわけです。

平原君は楚の考烈王を説得し、援軍を引き出す必要がありましたが、交渉は難航する事が予想されました。

平原君自身も楚の考烈王を説得しなければ、は滅ぶと考え、次の様に述べています。

平原君「綺麗な言葉で楚王を説得出来ればそれでよい。

しかし、それが叶わぬなら、武力を以って楚王を脅かし、壮麗な宮殿を血で染める事になっても、合従の盟約を勝ち取らなくてはならない。

儂に同行する者は、外の者を頼る必要はない。食客と門下の者で十分である」

平原君は知勇兼備の20人を選抜し、楚の考烈王との交渉に挑む事にしました。

この時に、19人は決まったのですが、最後の一人が決まらず迷っていると、毛遂なる者が自薦し同行を願います。

平原君は重要な任務である事を理由に、毛遂には趙に残って貰う様に伝えますが、毛遂は多いに弁を振るい平原君の一向に加わりました。

この時の平原君と毛遂のやり取りが、嚢中の錐や毛遂自薦などの故事となっています。

楚の考烈王との交渉ですが、平原君は苦戦し半日が経過しても、楚王を説得する事が出来ませんでした。

ここで毛遂が楚王の前に進み出て、半ば脅す形で合従の同盟を結ばせたわけです。

毛遂の活躍により交渉は成功し、楚からは宰相の春申君を趙への援軍として、派遣する事に決定しました。

平原君は趙に帰ると「自分は天下の士を見落とす事がないと自惚れていた。これからは、人物の目利きをするのは止めた」と述べた話があります。

平原君は毛遂の活躍を目の当たりとし、反省したのでしょう。

因みに、平原君は毛遂の功績を認め、上客として扱う事にしました。

信陵君を動かす

平原君の妻は、信陵君の姉でした。

信陵君は魏の公子であり、平原君は信陵君と誼を結びたいと考え、信陵君の姉を嫁に迎えたのでしょう。

魏の安釐王は秦を恐れ、援軍として派遣した晋鄙を鄴で停止させ、に援軍として派遣しなかったわけです。

平原君は信陵君に安釐王を説得させようと考え、次の様な手紙を出しました。

※史記 魏公子列伝より

私が貴方(信陵君)の姉と婚姻を結んだのは、貴方には義信があり、人の苦難を見過ごせない方だと思ったからです。

現在の邯鄲は落城寸前であり、苦しい立場にいるのに、魏は援軍を送ってくれません。

これではあなたが義の人だと思う事は出来ませんし、貴方の義心は何処にあるのでしょうか。

仮に私を見捨てるのは構わないとしても、邯鄲にいる私の妻で貴方の姉を見捨てる事に対し憐れむ気持ちは持ち合わせていないのでしょうか。

平原君は強い言葉で、信陵君にの援軍を出す様に催促したわけです。

信陵君の方でも、趙を救いたい気持ちがあり、兄の安釐王を説得しようとしますが、全て失敗に終わりました。

信陵君は独力で趙への援軍に向かう事にしますが、食客の侯嬴や如姫、朱亥の協力もあり、晋鄙から兵権を奪い趙に向かう事になります。

これにより趙はだけではなく、魏からも援軍を得られる事になったわけです。

鉄壁の守り

は秦軍の王齕、王陵、鄭安平などの猛攻を受けながらも、何とか持ちこたえていました。

さらに、の援軍が来る事は決まっており、援軍さえ到着すれば勝機も見いだせる状態になったわけです。

この時に、宿場役人の子である李同が、平原君に「趙の滅亡を他人事のように見ている」と指摘しています。

平原君はイラっとしますが、李同の述べた事が最もだと感じ、財産を放出しました。

一説によると平原君は全財産を放出したとも考えられています。

平原君は妾達にも仕事を与えるなど、趙は息を吹き返しました。

平原君は王族であり、宰相も務めた人間でもある事から、趙の貴族たちの間で、連鎖的に財産を放出する者が増えた様に感じます。

戦国策に白起が「平原君の一族は妻妾も軍卒の助けとなっている」と述べ、平原君を高く評価した話があります。

この時の趙は窮地にありましたが、一致団結しており白起をして「趙には隙が無く攻略する事は出来ない」と述べたわけです。

春秋戦国時代楽毅と並び最強の名将と言われた白起でさえ、趙の鉄壁の守りの前には、自分が趙を攻めても無力だと述べた事になるでしょう。

李同が決死隊を組織したいと平原君に進言すると、平原君は許し李同の軍は多いに秦軍を苦しめる事になります。

李同は戦死しますが、時間稼ぎは成功し信陵君と春申君の援軍が到着し、秦軍を撃退しました。

これにより邯鄲は救われたわけです。

邯鄲籠城戦において、平原君の活躍は大きかったと司馬遷は考え、史記の平原君虞卿列伝の最初に、次の様に述べています。

※史記 平原君虞卿列伝より

馮亭の事で論争したのは正しき道ではなかったが、楚へ赴き邯鄲の包囲を解かせ、主君を再び諸侯の列に入らせた。

よって、平原君虞卿列伝を作る

この記述から司馬遷は、邯鄲籠城戦での平原君の功績を評価し、平原君虞卿列伝を作った事になります。

食客の半分を信陵君に取られる

邯鄲籠城戦が終わると、春申君はに帰りますが、信陵君は魏の国法を侵してを救った事もあり、魏に帰る事が出来ず趙に残りました。

趙の孝成王と平原君は信陵君に多いに感謝し、自ら信陵君の陣に赴きます。

趙の孝成王と平原君は信陵君を誘導して城に帰りますが、この時に平原君は矢筒を背負い信陵君を誘導しました。

平原君は信陵君に対し、最大限の配慮を見せたのでしょう。

しかし、趙が安定し信陵君が毛公と薛公の二人と仲良くしている話を耳にすると、次の様に妻(信陵君の姉)に述べました。。

「其方の弟(信陵君)は天下に並ぶ者がいない程の人物と聞いていたが、博徒(毛公)や汁物屋(薛公)と仲良くしていると聞く。

それでは無茶苦茶な男ではないか」

平原君は恩人であるはずの信陵君に対し、侮蔑的な発言をしたわけです。

平原君の妻が弟の信陵君に告げた事で、信陵君は趙を出て行くと言い出しました。

信陵君としては「平原君が賢者だと思い助けたのに、賢者では無かった」と述べています。

平原君の妻が慌てて、平原君に伝えた事で、平原君は冠を取り信陵君に詫びました。

信陵君は趙に残る事になりましたが、平原君の食客の半分が信陵君に移り、信陵君の元には他国からも人が集まり、平原君を凌ぐほどの威勢を見せたと伝わっています。

平原君は失言をしたと言えるでしょう。

公孫龍に諫められる

邯鄲籠城戦が起きた後の平原君に関しての記述は非常に薄くなります。

平原君の逸話としては、邯鄲籠城戦で秦が退いた後に、虞卿が「邯鄲を救ったのは平原君の功績」と述べ、平原君の領地を増やすべきだ。と趙王に進言しました。

趙王も乗り気だったのか、平原君も領地の加封を受けようと考えますが、公孫龍が平原君を諫めた事で、平原君は加封の話を辞退しています。

平原君は公孫龍を重用しますが、鄒衍がで至道を説くと公孫龍を退け、鄒衍を手厚く待遇したとあります。

因みに、鄒衍は諸子百家の陰陽家を代表する人物であり、燕の昭王の師となった人物です。

他にも、平原君が上党やを攻撃しようと考え、馮忌に諫められた話が戦国策に記録されています。

平原君の最後

平原君の最後は史記の平原君虞卿列伝に書かれており、趙の孝成王の15年に亡くなったとあります。

平原君は西暦に換算すると、西暦251年に亡くなった事になります。

平原君の子孫に関してですが、が滅亡する時に滅んだと記録されています。

平原君の子孫が幽穆王と共に滅んだのか、代に行き代王嘉と共に滅んだのかは不明です。

尚、平原君は戦国四君の中では、最も評価が低いと言えます。

戦国四君の記事でも書いたのですが、平原君は孟嘗君には一県を破壊され、信陵君には食客の半分を奪われ、食客の待遇は春申君に劣っていた事が記載されており、これらが平原君の評価を著しく下げています。

しかし、戦国四君の最後を考えると孟嘗君は亡くなった時に後継者争いが勃発し薛は滅び、信陵君はアル中、春申君は李園により暗殺されています。

それを考えると、平原君の子孫がに滅ぼされたとはいえ、最もまともな最後だったと言えるはずです。

尚、平原君は食客の待遇が春申君に劣っていた話しもありますが、戦国四君の中では平原君が最も食客に助けられた人物でもある様にも思います。

平原君は人の声に、耳を傾ける度量があったと考えるべきでしょう。

平原君の能力値

三国志14(古武将)統率76武力59知力80政治78魅力82

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