その他 三国志 後漢

定軍山の戦い

2023年4月16日

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

定軍山の戦い(ていぐんざんのたたかい)西暦217年-219年
勢力劉備曹操
指揮官劉備夏侯淵
兵力12万(異説あり)20万(異説あり)
損害不明不明
勝敗

定軍山の戦いは劉備曹操の勢力が交戦し、法正黄権黄忠の活躍もあり益州勢が勝利した戦いです。

劉備は曹操が自ら兵を率いてやってくると逃亡する事が多いのですが、定軍山の戦いでは頑強に守り曹操がやって来ても逃亡する事はありませんでした。

それを考えると、定軍山の戦いは三国志の世界で曹操に敗れ続けた劉備が曹操から領地を奪った重要な戦いでもあります。

定軍山の戦いは別名として、漢中の戦いや漢中攻防戦、漢中攻略戦とも呼ばれ、劉備が漢中を手中にした一連の戦いの総称として使われる事も多いと言えます。

定軍山の戦いは漢中攻防戦のクライマックスであり、黄忠が夏侯淵を破った事で勝敗は決しますが、定軍山の戦いに至るには流れもあり合わせて解説します。

尚、定軍山の戦いで曹操の勢力を漢中から追い出した劉備は、漢中王となり全盛期を迎える事となります。

因みに、定軍山の戦いで劉備は黄忠を高く評価し後将軍としました。

曹操が漢中を手に入れる

214年に劉備は蜀を劉璋から奪いますが、孫権は荊州の返還を求め劉備と対立しました。

劉備や関羽が荊州の返還を拒否した事で、孫権は陸口に出陣し魯粛が巴丘に駐屯、呂蒙が荊州の三郡を奪う事態となります。

劉備と孫権が争うのを尻目に、215年に曹操張魯討伐を行いますが、陽平関の戦いで曹操は一度は張衛に敗れました。

しかし、劉曄の策もあり曹操は張衛を破り漢中を手中に収めています。

定軍山の戦いのキーポイントとなる漢中は、曹操の支配下となったわけです。

曹操が漢中を手にした時に、司馬懿が蜀への侵攻を進言しますが、曹操は「隴を得て蜀を望む」の言葉を残し、夏侯淵に漢中を任せ自身は撤退しました。

これにより定軍山の戦いで総司令官となる夏侯淵は漢中の責任者となったわけです。

劉備と孫権が争うと曹操が漁夫の利を得る事もあり、関羽と魯粛の間で単刀赴会が行われ、両者は和睦しました。

巴西の戦い

漢中の支配者であった張魯は逃亡していましたが、黄権が劉備に張魯を引き込むべきだと進言しました。

劉備は黄権の軍に張魯を迎えに行かせますが、黄権が到達する前に張魯は曹操に降伏しました。

215年に曹操は張郃に命じ、巴西、巴東を平定する事になります。

張郃は米倉道から進軍し、巴郡を制圧しました。

劉備は張飛と黄権に張郃を迎撃させ、宕渠の戦いで破り三巴を奪い返しました。

黄権も巴東、巴西・巴郡の太守を破り劉備は曹操の勢力を巴郡から駆逐する事に成功します。

劉備は孫権と和解していた事もあり、次は漢中をターゲットを絞りました。

これにより時代は定軍山の戦いに向かっていくわけですが、曹操の本隊が秦嶺山脈の反対側にいるなど、漢中には援軍が派遣しにくい状態でもあったわけです。

補給の観点から見ても、曹操は難しい戦いを強いられる事になります。

曹操は夏侯淵、張郃、徐晃ら歴戦の猛者に知将とも呼べる郭淮をつけて漢中を守らせました。

それでも、張魯が益州から侵攻してくる劉璋の軍を何度も破った事もあり、曹操にも一定の勝算はあった事でしょう。

魏軍の連勝

法正が劉備に漢中を取る様に進言し、218年に蜀の劉備は漢中を奪取する為に、北上しました。

劉備の目的は漢中の完全制圧であり、曹操の勢力を漢中から駆逐したいと考えていたわけです。

劉備は西の石牛道から漢中へ進軍しました。

劉備は張飛馬超、呉蘭、雷銅を派遣し武都に入らせる事になります。

武都の戦いでは魏の曹休が呉蘭、雷銅を破る活躍を見せ大破しました。

しかし、漢中への援軍である曹休と曹洪、曹真らは、劉備が陳倉道から漢中に侵攻する事を恐れ、夏侯淵率いる本隊と合流する事が出来なくなります。

武都の戦いは戦術的には益州軍の敗北でしたが、曹休、曹洪、曹真の援軍を釘付けにするなど戦略的には勝利を収めたと言えるでしょう。

これが定軍山の戦いに生きて来る事になります。

この後に陳式が馬鳴閣道に派遣されますが、夏侯淵は徐晃を派遣し陳式の軍に大勝しました。

ここまで見ると、魏軍が連勝し戦いを有利に進めている様に見えるかも知れません。

しかし、蜀軍が様々な方向から漢中に進軍した事で、夏侯淵は兵を分散させてしまったわけです。

実際に徐晃が陳式に大勝したといっても、大勝できる程の戦力を本軍から割いたとも言えます。

兵が分散した状態で夏侯淵は定軍山の戦いを迎える事となります。

定軍山への布陣

劉備は陽平関に主力部隊を進撃させ、さらに関城に兵を入れました。

劉備は陽平関の後方の関城に兵を入れる事で、間道を通って陽平関の裏に出るともいえる構えを見せたわけです。

孫子の兵法でいう「攻撃側は好きな場所を攻めれる」という利点をフル活用したとも言えるでしょう。

ここで夏侯淵は陽平関の沔水の北を放棄し、武将の張郃には東の広石を守らせました。

当時の陽平関は万里の長城や三国志演義の虎牢関や汜水関とは違い、防御陣地の集合体だったわけです。

実際に夏侯惇許褚が陽平関の山上の兵を呼び戻しに向かい、間違って敵の陣営に入ってしまった話があり、長城の様なものではなかったと考えられています。

さらに、夏侯淵は防禦ラインを南方に下げ定軍山に沿って布陣しました。

これにより定軍山の戦いが勃発したと言えるでしょう。

夏侯淵の布陣は陽平関の南で標高の高い山上の陣営から、定軍山に至る間を鹿角などの防塞を用いて守りを固め、北の陽平関から攻められても、南から侵入されても対処できるようにしたわけです。

夏侯淵は戦巧者であり、決して愚将ではありません。

定軍山の東を攻撃

劉備は5万の兵を有しており、兵を10部隊に分けて東方の張郃の軍勢に夜襲を仕掛けました。

張郃は劉備軍の夜襲を凌ぐ事になります。

劉備軍を破った張郃は定軍山の東側の守備につきました。

劉備軍は兵を南下させ、夏侯淵との決戦に動く事になります。

劉備は陽平関から連なる陣営の一つである走馬谷に攻撃を仕掛け、夏侯淵側の防御施設である鹿角を焼き払いました。

夏侯淵の目は走馬谷に行きますが、劉備の走馬谷への攻撃は囮であり、定軍山の東端にいる張郃の軍を激しく攻め立てたわけです。

総大将の戦死

劉備張郃への攻撃が厳しかった事で、夏侯淵は自らの兵の半分を張郃への援軍として派遣しました。

この時点で夏侯淵の予備戦力は無くなっていた事でしょう。

夏侯淵が張郃に多くの援軍を割いた様子を察知した法正は、劉備に夏侯淵本隊への攻撃を進言しています。

黄忠が夏侯淵の本隊を攻撃する事となり、夏侯淵の南方15里の地点の鹿角を焼き払いました。

夏侯淵は鹿角を修繕しようと考え、自ら四百の兵を率いて急行しました。

四百の兵は少ないと思うかも知れませんが、夏侯淵は「三日で五百里、六日で千里」進むと言われた名将であり、抜群の機動力で鹿角を修繕してしまおうと考えたのでしょう。

さらに言えば、夏侯淵は山上の兵を動かせば劉備に定軍山の拠点を奪われ、戦いが不利になると考えたのかも知れません。

ここで黄忠ら騎馬軍数千は夏侯淵の本陣の後ろの高所を強引によじ登り、高所から一気に駆け下り奇襲を仕掛けています。

夏侯淵の兵は精強ではありましたが、この時は黄忠の軍に勢いがあり、包囲され逃亡も難しくなります。

夏侯淵は劣勢の中で戦い続けましたが、魏軍は敗れ去り夏侯淵も斬られました。

この時の黄忠の奮戦は凄まじく、赤血刀を振り乱し自ら数百人の敵兵を斬ったとも伝わっています。

黄忠は抜群の武勲を討ちたてる事となります。

総大将の夏侯淵の戦死を持って、定軍山の戦いは勝負を決したわけです。

戦後

定軍山の戦いで総大将の夏侯淵は討死しましたが、配下の郭淮と杜襲は張郃を後継の総大将に推薦しました。

これにより張郃が夏侯淵の地位を引き継ぐ事になります。

張郃が総大将となるや全軍の動揺は収まったとあります。

しかし、定軍山は劉備に奪われてしまい、黄権も朴胡、杜濩、袁約らを破りました。

曹操の援軍も到着しますが、劉備が高地や険阻な地を占拠し、曹操は漢中の再制圧を諦めなければならなくなります。

曹操は漢中から撤退しますが、この時に「鶏肋」と述べ、配下の楊脩だけが撤退だと理解した話があります。

劉備は漢中王となり、魏延を漢中太守に任命しました。

記録はありませんが、魏延の定軍山の戦いでの功績が大きかったのかも知れません。

定軍山の戦いで勝利し漢中を奪った時点で、劉備の勢力は荊州にも領土を持っており全盛期を迎えたとも言えるでしょう。

定軍山の戦いで勝利に大きく貢献した黄忠は征西将軍から一気に「後将軍」へと昇進しました。

劉備が黄忠の功績を絶賛し、張飛や馬超であっても認めざるを得なかったのでしょう。

しかし、諸葛亮関羽の事を危惧し、劉備は費詩を派遣し関羽を宥め説得しました。。

尚、定軍山の戦いでは法正と黄忠の功績が極めて大きかったわけですが、法正も黄忠も翌年である220年に亡くなってしまいました。

関羽も樊城の戦いで敗れ孫権の裏切りにあい命を落しています。

定軍山の戦いで全盛期を迎えた劉備ですが、ここから時代は夷陵の戦いに向けて動く事になります。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細