三国志 魏(三国志)

丁斐(ていひ)はセコいが有能な人物

2021年9月29日

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宮下悠史

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丁斐(ていひ)は、曹操と同郷の人物であり、曹操からは可愛がられていました。

曹操と同郷と言う事は、丁斐の出身地は豫州沛国譙県になるのでしょう。

丁斐は金儲けが大好きであり、賄賂を取ったり法に触れる事もやっていたわけです。

しかし、曹操は丁斐を可愛がっていた事もあり、丁斐の罪を問う事はしませんでした。

それでも、丁斐は機転が利く部分もあり、潼関の戦いでは曹操の命を救うファインプレーを行っています。

丁斐は知名度は低いですが、三国志を彩る面白い人物であり解説したいと思いました。

尚、丁斐の話は正史三国志の『諸夏侯曹伝』の中に収録されています。

ただし、丁斐の記述自体は少ないと言えるでしょう。

余談ですが、丁斐は悪徳な部分があるにも関わらず字が「文侯」であり、名前だけは名君に感じる人でもあります。

丁斐の動画

当ブログ管理人が作成した丁斐のゆっくり解説動画です。

文字が苦手な方は、こちらをご覧ください。

悪徳だけど有能な人物

先にも述べた様に、丁斐は賄賂の常習犯であり、法律を犯す様な事もしていた様です。

しかし、曹操は丁斐を罪には問わず、可愛がっていました。

正史三国志によると丁斐は典軍校尉になって、内外を取り仕切ったとあります。

丁斐は様々な意見を陳述し曹操に提出しますが、曹操は聞き入れる事が多かったとあります。

丁斐は清廉潔白な人物ではありませんが、有能だと曹操は知っていたわけです。

曹操は次の様に述べた事があります。

曹操「魏無知に出会えずにいる者は、自分に仕える様にせよ。」

魏無知戦国四君信陵君の子孫とされ、劉邦陳平を推挙した人物となります。

陳平は兄嫁に手を出した話もあり『曹操は素行が悪くても、自分は能力があれば重く用いる。』と宣言したわけです。

この言葉からも分かる様に、曹操は丁斐の能力を評価しており、丁斐に賄賂を要求するなど悪徳な部分があっても、気にせず重用したのでしょう。

丁斐も曹操の性格を知っており、賄賂を取り続けた可能性もある様に思います。

潼関の戦いで曹操の命を救う

西暦211年に曹操と韓遂、馬超らが率いる涼州連合との間に、潼関の戦いが勃発します。

潼関の戦いには、丁斐も従軍していた事が正史三国志の武帝紀にあります。

この時に曹操は徐晃朱霊に蒲阪津を渡河させて、陣営を作らせています。

曹操も潼関の北から渡河しようとしますが、軍が渡河している最中に馬超が急襲してきたわけです。

馬超に不意を衝かれた事で、曹操は危機に陥りました。

この時に、丁斐は機転を利かせて、牛や馬などの家畜を解き放ったわけです。

涼州軍の兵士は牛や馬を我が物にしようと群がり、曹操への攻撃が緩みます。

これにより曹操は渡河を成功させています。

丁斐が家畜を放たなければ、曹操は馬超に捕まっていた可能性もあり、丁斐の機転が曹操を救ったとも言えるでしょう。

尚、潼関の戦いは賈詡(かく)の離間の計も冴えわたり、馬超と韓遂を仲違いさせた事で、曹操軍の大勝利となっています。

呉討伐で監獄に放り込まれる

丁斐は孫権征伐にも従軍しますが、手癖の悪さから監獄に入れられる事になります。

尚、正史三国志には建安末期とあるので、丁斐が従軍した呉討伐は西暦216年の濡須口の戦いではないかと考えられています。

牛を取りかえる

丁斐は呉討伐に従軍しますが、自分の家の牛に比べ、役所の牛の方が立派だと感じます。

そこで、丁斐はやせ衰えた自分の牛と、役所の立派な牛を入れ変えてしまったわけです。

丁斐は牛を交換したのがバレてしまい、告発され丁斐は逮捕されてしまいました。

当然ながら、丁斐は獄に入れられて官位も没収されてしまいます。

曹操が丁斐を許す

曹操は丁斐が監獄に入れられたと聞いて、監獄に訪れる事になります。

この時に、曹操は獄中にいる丁斐に、笑いながら次の様に話しかけました。

曹操「文侯(丁斐)よ。印綬はどこにあるのかね。」

曹操に話しかけられた丁斐は、曹操にからかわれていると感じ、次の様に返しています。

丁斐「印綬と餅を交換してしまいました。」

曹操は丁斐の話を聞くと、大笑いしてしまったとあります。

曹操は法律に厳格で厳しい人物に思うかも知れませんが、人と話す時は冗談を言いながら話すのが普通だったとも曹瞞伝に記述があります。

曹操は丁斐を救いに来たのであり、役人に対し次の様に述べています。

曹操「東曹の毛掾は何度も丁斐の罪を言上し、儂に丁斐を裁かせようと思っておる。

儂もこやつ(丁斐)が清廉ではない事を知らないわけではない。

しかし、儂が丁斐を処罰しないのには訳がある。

丁斐は家にいる鼠を捕まえるのが上手な、泥棒犬と同じなのじゃ。

丁斐は盗みによって少しばかりの損はするが、家の蓄えは守ってくれる。」

曹操は丁斐を許し、元の官職に戻したわけです。

曹操は丁斐に対する態度は変えずに、今まで通り丁斐の意見を尊重した話があります。

曹操は丁斐に対する態度を見る限りだと、丁斐をよく理解していると言えるでしょう。

丁斐の最後

丁斐は曹操から許されますが、数年後に病死したとあります。

丁斐が亡くなった時に、曹操の言葉などは残っていはいません。

丁斐の最後の言葉なども不明です。

因みに、丁斐には丁謐なる子がおり、丁謐が後継者になった話があります。

丁謐は司馬懿から嫌われており、司馬懿が曹爽を排除した高平陵の変の時に、丁謐も殺害されています。

丁斐の評価

丁斐は賄賂を取ったと言いますが、小さな金額だった様に思います。

後漢の霊帝の時代に権力の中枢にいた宦官である十常侍の様に、派手に賄賂を取ったわけではないはずです。

勿論、丁斐に対し賄賂を渡さなかった人もいるかと思いますが、宦官の左豊がやった様に、盧植を更迭した様な事件も無かったのでしょう。

あくまでも少額の賄賂だった事で、曹操は丁斐を許し続けた様に思いました。

曹操が潼関の戦いで危機に瀕した時に、丁斐は牛や馬を放っていますが、こういう場所では物惜しみしない性格だと感じています。

潼関の戦いの時に、丁斐が馬や牛が勿体ないと考えたら、とても曹操を救う事は出来なかった事でしょう。

曹操は丁斐の事を「泥棒犬」と例えていますが、丁斐は泥棒犬なりの忠犬だった様に思います。

能力主義の曹操の下だったからこそ、丁斐は活躍出来た面もある様に感じました。

ただし、少数の賄賂を取り続けるなどは、せこいとも言えるでしょう。

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