
| 名前 | ラムセス1世 |
| 別名 | パ・ラムセス |
| 生没年 | 生年不明ー前1294年頃 |
| 在位 | 前1295年ー前1294年 |
| 時代 | エジプト文明、エジプト新王国 |
| 国 | 第18王朝→第19王朝 |
| 一族 | 父:セティ 子:セティ1世 |
| コメント | エジプト第19王朝の開祖 |
ラムセス1世はエジプト第19王朝の始祖となった人物です。
エジプト第18王朝ではアイ、ホルエムヘブと非王族がファラオとなっていました。
ホルエムヘブの元で活躍したのがラムセス1世であり、軍事において活躍したのでしょう。
主君のホルエムヘブに子がなかった事で、ラムセス1世が即位する事になりました。
アイやホルエムヘブと同様に、血縁関係にない者がファラオになったと言えます。
ラムセス1世によりエジプト第19王朝が始まりますが、在位期間は僅か2年で世を去りました。
それでも、後継者は子のセティ1世がなっており、世襲王朝が復活したと言えるでしょう。
エジプト第19王朝と第20王朝はラムセスの名前が付くファラオが多く、ラムセス朝とも呼ばれています。
尚、即位前はパ・ラムセスと呼ばれていましたが、ここでは紛らわしさを回避する為に、全てラムセス1世で記録しました。
即位前のラムセス1世
ラムセス1世は過去にヒクソスの首都だったアヴァリスの出身の軍人でした。
非王族であり、軍事エリートの血筋だったとも言えます。
父親は弓兵隊長セティだったと記録されています。
シリアやパレスチナの軍事拠点であるシレの、長官を務めエジプト第18王朝の西アジアの軍事政策に大きく貢献したと考えられています。
ラムセス1世を高く評価したのが、エジプト第18王朝の最後のファラオであるホルエムヘブでした。
ホルエムヘブはラムセス1世を宰相としても重用する事になります。
ホルエムヘブはアテン神の力を弱め、アメン神をはじめとするエジプトの神々を復興させていますが、ラムセス1世も改革の中心にいたのでしょう。
ラムセス1世とエジプト第19王朝の始まり
ホルエムヘブはファラオになりましたが、子がいなかったと考えられています。
こうした中でホルエムヘブは自らの後継者にラムセス1世を指名したのでしょう。
ホルエムヘブは力による支配を目指したとされていますが、後継者にも力を求め、それこそがラムセス1世だったとも見られています。
ラムセス1世は即位し、これによりエジプト第18王朝は滅亡し、第19王朝が勃興しました。
これ以降はラムセス1世の子孫がファラオの座に就く、世襲制が採用される事になります。
ラムセス1世は即位すると、アビドスとヌビアのブーヘンに神殿を造営し、カルナクのアメン大神殿の第二塔門の建設を終えました。
ヌビア遠征も行っています。
エジプト第19王朝は積極的に遠征を行ったイメージがあるのかも知れませんが、ラムセス1世が行ったのはヌビア遠征のみです。
スーダンの国境付近のワディ・ハルファにも石碑を残しています。
治世の2年目には息子のセティ1世を共同統治者に指名しており、後継者をセティ1世と定めたのでしょう。
ラムセス1世の最期
ラムセス1世は積極的に神殿建設を行った様にも見えますが、在位期間は僅か2年ほどしかなかったようです。
セティ1世を共同統治者として定めた年に亡くなったという事です。
既に即位した時に、50歳を超えていたとも考えられており、当時で言えば高齢に属する部類だったのでしょう。
ラムセス1世は王家の谷に王墓(KV16)を造営してはいましたが、在位期間が短く規模はかなり小さい事が分かっています。
それでも、壁面には「門の書」と呼ばれる宗教文書が描かれています。
ただし、在位期間が余りにも短く時間が無かった事もあり、壁画や石棺が「粗雑」とする評価もあります。
墓の内部にはツタンカーメンの王墓でも出土した番人の像も発見されている状態です。
ラムセス1世のミイラは行方が分からなくなっていましたが、カナダのアガラ・フォール博物館に収蔵されている事が分かり、エジプトに返還されました。
現在はルクソール博物館にあります。
ただし、ラムセス1世のミイラとされた原因は、子のセティ1世や孫のラムセス2世と同じような鍵鼻となっており、これが原因でラムセス1世のミイラだと考えられる様になりました。
鼻の形で断定しているわけであり、本当にラムセス1世のミイラなのかは分からない部分も多いです。
ただし、ラムセス1世のミイラの可能性が極めて高いと考える専門家もいます。
尚、後継者のセティ1世の時代になると、カデシュの奪還を目指しヒッタイトとも争う時代に突入しました。
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