恒良親王は後醍醐天皇の皇子であり、皇太子にも指名されています。
後醍醐天皇が比叡山を包囲され、足利尊氏との和睦が成立すると、後醍醐天皇は恒良親王に譲位した上で京都に入りました。
これにより恒良親王に践祚があり、天皇となります。
恒良親王の綸旨も発見されており、天皇になった事は明らかでしょう。
ただし、後醍醐天皇が南朝を開くと取り下げています。
後に恒良親王は金ヶ崎城の戦いで捕虜となり、後に亡くなっています。
皇太子となる
父帝の後醍醐天皇は元弘の変で笠置山城の戦いに敗れ、捕虜となりました。
この時に尊良親王や宗良親王は捕虜となり流刑地に送られますが、恒良親王は幼かった事もあり、配流を逃れています。
恒良親王の母親である阿野廉子は千種忠顕らと共に、後醍醐天皇に従い隠岐に配流されています。
後醍醐天皇は捕虜となりましたが、護良親王や楠木正成が挙兵し後醍醐天皇も隠岐を脱出し、足利尊氏や新田義貞により鎌倉幕府は滅亡しました。
鎌倉幕府が滅亡し建武政権が始まると、兄の護良親王が征夷大将軍となりますが、後に失脚しました。
この頃までには、恒良親王が皇太子として定められました。
後醍醐天皇の期待は年長の尊良、護良、宗良ではなく、恒良、成良、義良らに移っていったとされています。
天皇に即位
湊川の戦いで楠木正成が討死しており、足利尊氏が京都を占拠し後醍醐天皇を比叡山に包囲しました。
比叡山で後醍醐天皇を守っていたのが、新田義貞です。
太平記を見ると足利尊氏が後醍醐天皇に和睦を持ち掛けました。
後醍醐天皇は新田義貞に相談もせず、和議を結び比叡山を降りようとした所で、新田義貞に出くわし、仕方なく新田義貞に皇太子の恒良親王と尊良親王を預け北陸に向かわせた事になっています。
太平記では堀口貞満が涙ながらに訴えるシーンもあり、アンチ後醍醐が集まる最大のシーンになっている様に感じました。
しかし、実際には後醍醐天皇なりの考えがあり、この時に恒良親王に譲位したとも考えられています。
後醍醐天皇が足利尊氏と和睦した後に裏切られ、もしもの時の事を考えて恒良親王に譲位していたとする説です。
実際にこの時には、既に足利尊氏や直義は持明院統の光明天皇を即位させ、治天の君として光厳天皇がいました。
ここで後醍醐天皇が和睦に応じて、京都に入ったとしても、どうなるのかは未知数な部分が多々ありました。
こうした事情もあり、後醍醐天皇は新田義貞に恒良親王を任せ譲位し、北陸に向かわせたとも考えられています。
一般的には新田義貞の顔を立てる為に、後醍醐天皇は恒良親王に譲位したとされていますが、実際には室町幕府に裏切られた時の事を考えていた可能性もあるという事です。
ただし、足利軍と新田軍の間で戦闘が行われる中での践祚であり、恒良親王の新帝即位は非常に慌ただしいものだった事でしょう。
尚、恒良親王が皇位の証でもある三種の神器を持って北陸に向かったのかは不明な部分が多いです。
新帝恒良親王
恒良親王は尊良親王、新田義貞、脇屋義助、洞院実世らと北陸に向かいました。
ここで注目したいのは、恒良親王が延元元年十一月十二日に発行した綸旨が残っているという事です。
恒良親王が新帝になった事は間違いないでしょう。
後醍醐天皇が花山院に幽閉されている時から、恒良親王は綸旨を発行した事も分かっています。
恒良親王は越前の敦賀に到着した事を結城宗広に告げており、足利尊氏及び直義の追討を命じました。
後醍醐天皇が室町幕府と和睦しても、足利尊氏と新田義貞の戦いは継続していたわけです。
尚、後醍醐天皇が花山院を脱出し吉野で南朝を開くと、帝の名を取り下げました。
後醍醐天皇が南朝を開いてから綸旨が消滅しており、恒良親王が帝ではなくなった事は明らかでしょう。
恒良親王の在位期間は、僅か二か月ほどしかありません。
恒良親王の最後
室町幕府では越前を斯波高経に任せており、石橋和義、高師泰、仁木頼章らを援軍とし北陸に向かわせました。
ここにおいて金ヶ崎城の戦いが勃発しています。
最終的に新田義顕が総大将となり防戦しますが、城中は飢餓が蔓延し戦いには敗れています。
金ヶ崎城の戦いで尊良親王と新田義顕は自害しますが、恒良親王は捕虜となりました。
恒良親王は幕府に対し「新田義貞は既に亡くなり火葬にした」と嘘の情報を述べた話があります。
幕府は恒良親王の言葉を信じ越前への攻勢を緩ませますが、新田義貞は死んではおらず、幕府勢力を破り越前の大半を支配するまでになりました。
室町幕府は恒良親王を許す事が出来ず、既に幽閉してあった成良親王と共に毒殺したとされています。
実際のところ恒良親王の最後がどの様なものだったのかは不明ですが、後醍醐天皇が崩御するまでには亡くなっていたと考えられています。
後醍醐天皇の後継者は同母弟の義良親王が後村上天皇として即位しました。