ウバイド文化は、メソポタミア文明を解説する上で絶対に知っておくべきことだと考えています。
メソポタミア文明と言えば、シュメール人を思い描く人が多くと感じます。
シュメール人は、どこからともなく正体不明の民族が突然現れて、大文明を興した様な言われ方をされる事が多いです。
しかし、実際にはシュメール文明が大発展する前に、ウバイド文化がありシュメール地方が大発展する土壌が出来ていた様に感じています。
今回は、古代メソポタミアのウバイド文化について解説します。
因みに、メソポタミアはギリシア語で「川の間」の意味があり、チグリス川とユーフラテス川の間という意味があります。
尚、シュメール人は正体不明の謎の集団とされていますが、ウバイド人も正体が不明です
シュメール人同様にセム族と関係があるのではないか?とも言われていますが、諸説があってはっきりとしません。
因みに、正体不明と言うとミステリアスに感じるかも知れませんが、実際には土器や文字がないなどの関係で正体不明となっているわけです。
シュメール人に関しては学者などであっても、惑星ニビルから来た宇宙人だとする説もあるとする人もいますが、個人的にはウバイド文化が元になっている様な気がしてなりません。
一つの説としてシュメール人とウバイド人は同じ民族立つする説があります。
尚、ウバイド文化はウバイド期と呼ばれる事もあります。
ウバイド文化の動画
ウバイド文化やウバイド人を動画で知りたい場合は、こちらを見る様にしてください。
ゆっくり解説動画となっています。
メソポタミア南部には殆ど人がいなかった
最近の説で古代メソポタミアの南部には、人が殆どいなかったのではないか?と考えられています。
古代メソポタミアの北部には、ハラフ文化(紀元前6000年から紀元前5300年頃)なるものがありました。
ハラフ文化は、メソポタミア地方の北部に栄えています。
この当時のメソポタミア地方南部ですが、チグリスユーフラテス川の氾濫などにより土地は非常に肥えていたわけです。
しかし、雨が殆ど降らない為に人が殆どいませんでした。
この当時は農業が行われていた事も分かっていますが、天水農業しかなかったわけです。
天水農業は、雨水を利用した農業であり、川から水を引いて農業用水にするという発想がありませんでした。
その為、メソポタミア地方の南部には人が殆どいなかったと考えられています。
しかし、そこに革命的な農業が誕生します。
灌漑農業は農業革命だった!
ウバイド文化が栄える理由ですが、灌漑農業が大きく関わっています。
メソポタミア南部の土壌が優れている事を見出し、川から水を引いて灌漑農業を行えばいいのではないか?と考えた人がいたわけです。
もちろん、当時はブルドーザーも無ければシャベルカーもありません。
人力で途方もない苦労をして水を引いて堤防や用水路を作ったのでしょう。
そうした苦労を続けたお陰で、メソポタミア地方は大発展する事になるわけです。
さらに言えば、用水路や堤防を作るのには、みんなの協力が必要不可欠となります。
ここにおいて集落や村という概念が出来たと言えるでしょう。
食糧事情も安定した事で、メソポタミア地方南部に定住する人も増えて大発展していきます。
シュメール人が突然やってきて、都市国家が突然現れた様な言い方をする人がいますが、実際にはウバイド文化の頃の灌漑農業による集落が礎になっているのではないでしょうか?
シュメール文明の礎はウバイド文化にあると考えられるはずです。
平等な世界があった
ウバイド文化の特徴ですが、平等であった事でしょう。
この時代は格差が殆ど見られないと言います。
格差があった事が分かる原因の一つとして、死者の埋葬方法があります。
しかし、この時代の埋葬方法は、ほぼ全員が同じであり神官だけが少し特別視されている位だと言えます。
今の世の中は、格差社会が問題視されていますが、ウバイド文化は格差が殆どありません。
ウバイド文化が平等だった理由の一つとして、メソポタミアの灌漑用水などを作ったりと未開拓な地を集団で切り開いた事に原因があるはずです。
小さな村落の仲間意識が強く格差は殆どありませんでした。
灌漑農業が大発展したお陰で余剰食糧まであったとされています。
ウバイド文化の余剰食糧は、倉庫や神殿に保管されたようですが、鍵もなく盗まれる事もなかったようです。
もちろん、ウバイド文化の後期には事情が違ってきますが、前期あたりは格差もなく人々は平和に暮らしていたとされています。
初期の頃は治安もよく社会問題も少なかったのでしょう。
神権政治が行われていた
ウバイド文化ですが、神権政治が行われていました。
この時代に既に神殿があった事が分かっています。
多くの専門家が神殿は立派に作ってあったと考えています。
人々は神を心の拠り所にしていたのではないか?と考える専門家も多いです。
因みに、ウバイド文化は堤防があったと言っても、現在の様な立派なものではなく大規模な氾濫があれば耐える事が出来ません。
そうした事から天候を予測できる人物が崇められたのではないか?と考える人もいます。
車輪が作られる
ウバイド文化の代表的な物として車輪が作られたというのがあります。
古代の車輪と言えばリアカーのタイヤを想像する人も多いも知れません。
しかし、ウバイド文化の車輪は車のタイヤではなく、土器を作る轆轤(ろくろ)の車輪だったようです。
さらに、ウバイド文化の頃には銅製品が既に使われていた事になっています。
尚、この時代は銅や石などで農業を行っていたようです。
後年にヒッタイトの人々が登場するまでは、鉄製品は使われていません。
解放的な土地だった
メソポタミア地方の特徴として開放的な土地柄というのがあります。
周辺に大きな山脈もなく人が簡単に侵入する事が可能だという事です。
古代オリエントのエジプトが閉鎖的な土地柄だった事を考えると、人々が集まる土地でもありました。
多数の人々が入ってくる事は発展にもなりますが、落とし穴もあるわけです。
初期の頃は周辺の人々も好意的に受け入れられていた形跡があります。
貿易が行われた
ウバイド文化ですが、既に貿易が行われていた話があります。
メソポタミア南部を中心とした地域は、灌漑農業により食料が大量にあるわけです。
しかし、食料は大量にあっても石や木材などは殆どありません。
ウバイド文化の人々が泥レンガの家に住んだのは、石や木材などが不足していたからです。
ウバイド文化圏の方々は、開放的な土地だという事を利用して周辺の人々と貿易を行っています。
ウバイド文化の方からは食料を提供し、周辺の民族からは石、木材、家畜などを手に入れていたのでしょう。
まだお金という概念はなかったようで、物々交換となりますが、既に貿易が行われていたようです。
周辺の人々が好意的に受け入れられた理由
ウバイド文化の人々は、周辺の民族などを好意的に受け入れたとされています。
好意的に受け入れた理由ですが、周辺の人々は貴重な情報や物資を持っていた事が原因のようです。
さらに、ウバイド文化の人々は収穫期になると人手不足が蔓延化していたようで、出稼ぎとして周辺の民族を受け入れた話もあります。
ただし、人々が多く流入してくると格差なども起きる事になります。
尚、周辺からウバイド文化圏にやってきた民族などは、労働の専門職を作り出したともされています。
気候変動により住めなくなった人々がやってくる
ウバイド文化が消える原因ともなるのが気候変動だと考える人もいます。
温暖化により海水が上昇した事が原因です。
ペルシア湾の海水が200キロも内陸に入って来た事で土地を失う人も出て来たとされています。
海水では農業も出来ない為、農地を失った人も大量に出たのでしょう。
農地を失った人々は土地が豊かに集落に行く事になります。
しかし、後から集落に入った人々は、先住民に比べると、どうしても不利となりがちです。
最初から土地にいる人から食料を分けてもらったりしなければいけない事に理由があります。
貧富の差が生まれる
ウバイド文化の初期は、鍵を掛けなくても大丈夫なほど平和に暮らしていました。
もちろん、農業社会なので仕事が辛いなどはあったのかも知れませんが、格差も殆どなかったわけです。
しかし、周辺の人々が入ってくる事で格差も生まれています。
ウバイド期の終わりの方では、死者の埋葬方法にも差が出ています。
埋葬方法の差が身分の違いだったり貧富の格差を生んでいると考える専門家が多いです。
身分の違いや貧富の差が泥棒などが現れる原因ともなり、シュメール文明の時代になると鍵や見張り役の人も登場するわけです。
さらに、罪を犯した人間を罰するための法律が出来たり社会のルールもウバイド期に整備されてきたとされています。
楔形文字の原型が作られる??
ウバイド文化の頃に楔形文字の原型が出来たのではないか?と考える人もいます。
一つの説なのですが、格差が出来た事で借金の様な物が出来たとされています。
貧富の差が出来れば貧しい人は、豊かな人に食料などが困った時に来年返す事を約束して借りるという現象が起きるはずです。
この時に口約束だけですと、踏み倒されたり幾ら貸したのか忘れてしまうなどが起きます。
さらに、多くの人に貸している人の場合は、誰にどれだけ貸したのか覚えていられない事もあったのでしょう。
どれだけ貸したのかを記録するために文字の原型が出来たとされています。
しかし、文字だけですと無くしてしまったり、書き直されてしまうなども問題も起きるはずです。
それを防ぐために、借用書を土器に入れて封をし返して貰う時になったら土器を割って借金が終わるという仕組みが出来ていたとされています。
この時に使った文字が、楔形文字の原型になったのではないか?とする説もあるわけです。
ウバイドからシュメール文明の移動について
ウバイド文化が終わるとシュメール地方が大発展する事になります。
ウルクという都市の発展が凄まじかった為に「ウルク文化」とも呼ばれています。
ウバイド文化からシュメール文明への移行は、どの様になされたのかは様々な諸説があります。
しかし、メソポタミア地方で最も大きな勢力を持った地域が、ウバイドではなくシュメール地方のウルクに変わったのではないか?と感じています。
シュメール人が神話の様に惑星ニビルから来たと言うのであれば、違う事になりますが、元々シュメール人はシュメール地方にいた様な気もするわけです。
さらに、メソポタミアの開放的な地形が様々な文化を呼び寄せてシュメール文明は大発展したのではないか?と考えています。
シュメール人は天文学が凄まじいとか、法律があったり白内障の手術が出来たなどは有名ですが、元になっている技術はウバイド期に既にあったのかも知れません。
因みに、ウバイド人とシュメール人が同じ民族だった説も存在します。
日本で言えば、縄文人と弥生人が同じ民族だったと言うのと似ている話になるのかも知れません。
ウバイド人が灌漑の技術を持ち都市国家を作りシュメール人となった説です。
ウバイド人がシュメール人になったのであれば、アッカド人のサルゴンによりウルク第三王朝のルガルザゲシに敗れシュメール文明の都市は陥落しますが、ウル第三王朝で復活し、ウル第三王朝の滅亡と共にウバイド人も姿を消す事になります。
ただし、姿を消すと言っても、民族が突然消えるわけでもなく、アッシリアやミタンニ王国、ハンムラビ法典で有名なバビロン第一王朝の民として生き抜き混血が進みウバイド人は姿を消した可能性もあります。
尚、日本人のルーツがウバイド人にあると考える人もいます。
日本は昔、「倭」と呼ばれていますが、これがウバイド人の「ウ」に当たるそうです。
漢字にすると倭買人となるとされています。
シュメール人の祖先が天皇家と関係がある説もあり、ミステリーの大きな時代とも言えます。