室町時代

脇屋義助は兄を支えた良将

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宮下悠史

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名前脇屋義助
別名小次郎(幼名)
生没年1305年ー1342年
時代鎌倉時代ー南北朝時代
一族父:新田朝氏 兄:新田義貞 子:脇屋義治
コメント兄を補佐し続けるも四国で最後を迎える

脇屋義助は新田義貞の弟で、兄を補佐し関東、近畿、北陸、四国と各地を転戦しています。

脇屋義助には子の脇屋義治がいます。

新田義貞と協力し鎌倉幕府も滅ぼしています。

建武の新政が始まると駿河を任されました。

足利尊氏が建武政権から離脱すると、新田義貞と共に討伐に向かいますが、箱根竹ノ下の戦いで敗れています。

後醍醐天皇と新田義貞が決裂すると、兄の義貞と共に北陸に向かい越前で奮戦しました。

兄と共に挙兵し行動

脇屋義助は新田義貞の弟で、上野の地名である脇屋から苗字が取られたとされています。

鎌倉時代の最末期に後醍醐天皇や楠木正成が挙兵し幕府軍の猛攻を耐える中で、脇屋義助は兄の新田義貞と共に上野で挙兵しました。

鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政が始まりますが、脇屋義助は駿河国を任されています。

新田義貞が鎌倉を離れて京都に向かうと、脇屋義助も行動を共にする事になります。

丸子神社の願文

中先代の乱は足利尊氏により鎮圧されますが、足利尊氏は論功行賞を始め建武政権から離脱しました。

後醍醐天皇は新田義貞と脇屋義助に、鎌倉にいる足利尊氏討伐の命令を下す事になります。

脇屋義助は新田義貞と共に東海道を通り鎌倉を目指しました。

この時に、駿河の丸子神社で願文を納めたと伝わっています。

ただし、偽文書の可能性があるとも指摘されている状態です。

丸子神社・浅間神社

名前住所電話番号
丸子神社静岡県沼津市浅間町4055-962-0330

足利尊氏との戦い

足利尊氏との間で箱根竹ノ下の戦いが勃発しました。

足利尊氏と脇屋義助が戦い、足利直義と新田義貞が戦う展開となります。

ここで大友貞載や塩冶高貞らが足利尊氏に寝返った事で、新田軍の敗北が決まりました。

新田義貞と脇屋義助は東海道を敗走しますが、畿内では北畠顕家の援軍もあった事で勝利しています。

足利尊氏は九州へと没落し、後醍醐天皇は新田氏に九州への追撃を命じました。

脇屋義助は新田義貞と共に播磨、備前、備中に軍を進め赤松円心石橋和義仁木頼章らと戦う事になります。

この時に中国地方の武士にも動員を掛けた事が分かっています。

建武政権で新田氏が重用される

建武政権の為に奮戦する新田氏の為に、後醍醐天皇は新田義貞の子の新田義顕を武者所の一番頭人にしました。

さらに、脇屋義助の子の脇屋義治を武者所の五番頭人にし、新田氏の一族を優遇しています。

後醍醐天皇としても、足利尊氏打倒に対し新田氏の一族に大いなる期待を寄せていたのでしょう。

後醍醐天皇との確執

足利尊氏は多々良浜の戦いで勝利し、大勢力となり近畿に進撃しました。

湊川の戦いには脇屋義助も参戦していましたが、戦いには敗れ楠木正成が戦死しています。

脇屋義助は新田義貞と共に畿内で戦う事になります。

後醍醐天皇は近江国東坂本に赴き、脇屋義助は琵琶湖を渡り、東部方面で激闘を繰り返しています。

しかし、後醍醐天皇が勝手に足利尊氏と和議を結んでしまった事もあり、新田義貞と決裂しました。

脇屋義助も後醍醐天皇の豹変ぶりには、驚きを隠せなかった事でしょう。

脇屋義助は新田義貞と共に恒良親王、尊良親王らと北陸を目指す事になります。

金ヶ崎城の戦い

越前国の敦賀津金ヶ崎城に、脇屋義助は新田義貞と共に籠城する事になります。

足利軍の斯波高経高師泰らが猛攻を加えるも、脇屋義助が敵の背後から攻撃を仕掛けるなどの活躍もありました。

しかし、脇屋義助の奮戦も焼け石に水であり、城内は食糧が不足し苦しい立場となります。

金ヶ崎城は落城し、尊良親王や新田義顕が自害となり、恒良親王は捕虜となっています。

金ヶ崎城が落城した時に、脇屋義助や新田義貞が城内にいなかった事は間違いなく、勢力を回復させるべく動く事になります。

新田義貞の死

金ヶ崎城の戦いで敗れた事で、圧倒的に不利な状態になるかと思われましたが、脇屋義助は新田義貞と共に勢力を挽回しました。

この頃には権威となる様な、親王も皇族も新田氏は擁立してはいませんでしたが、金ヶ崎城も奪還するなど越前国の大半を手中に収めています。

室町幕府勢力の斯波高経を追い詰めて行きますが、藤島の戦いで不慮の事故の様な形で、兄である新田義貞が戦死してしまいました。

越前での敗北

新田義貞が戦死しても、脇屋義助は越前で戦い続けています。

脇屋義助は畑時能らと共に、斯波高経が籠る黒丸城を攻略しました。

しかし、室町幕府も本腰を入れて越前の平定に乗り出すと、各地で激戦が繰り返されますが、結局は敗れています。

脇屋義助が越前の最強勢力となっても、周りは足利勢ばかりであり、物量的には圧倒的に不利だったわけです。

脇屋義助も越前国平茸城が陥落してしまい、越後でも新田義宗が敗れ苦しい立場となりました。

越前での脇屋義助の活躍も記録も見られない様になっており、1342年までには、越前にいられなくなり美濃に落ち延びたと考えられています。

吉野に帰還

脇屋義助は美濃の根尾城で再起を図りますが、土岐頼遠の攻撃を受けて根尾城は陥落しました。

この頃に越前でも鷹巣城で、畑時能が奮戦していましたが、戦いに敗れて最後を迎えています。

脇屋義助は熱田神宮に助けられ尾張へと入り、その後に伊勢から吉野に戻りました。

脇屋義助は北国での敗北を後村上天皇に報告しますが、後村上天皇は北国での忠勤を喜び、罪に問わなかったわけです。

それどころか、後村上天皇は脇屋義助に恩賞を与えようとしています。

しかし、洞院実世は「戦いに敗れた者に恩賞を与えてはならない」と述べ反対しました。

四条隆資は脇屋義助が敗れたのは新田義貞や脇屋義助の戦略の過ちではなく、後醍醐天皇に原因があったとし、脇屋義助を庇いました。

さらに、四条隆資は将軍に対し君主の介入がない様に、最高指揮官の権限を強化し、政治から分離・独立させるべきだと説いています。

こうした事もあり、後村上天皇は脇屋義助に恩賞を与える事にしました。

脇屋義助の四国入り

四国から吉野に軍司令官の派遣要請があり、後村上天皇は脇屋義助を向かわせる事にしました。

脇屋義助は伊予を目指す必要が出てきましたが、道中は全て敵であり辿り着けるかも分からない状態だったわけです。

こうした中で、備前の佐々木信胤が高師秋と「浮気の御妻」なる女性を巡って対立し、南朝に降ってきました。

佐々木信胤の助けを得られた事により、脇屋義助は四国に入る事が可能となります。

脇屋義助の最後

脇屋義助は高野の霊地に参詣し、熊野水軍に送られ、佐々木信胤に迎え入れられ、伊予国今張浦(愛媛県今治市)に入りました。

四国には懐良親王がいましたが、九州を目指した時期であり、入れ替わりで脇屋義助が入ったか、懐良親王と面会し言葉を交わした可能性もある様に感じています。

太平記によると脇屋義助が伊予に入ると、四国一円が南朝方に帰順したとあります。

しかし、脇屋義助は激戦の疲れからなのか、突如発病し、僅か七日で没したとあります。

脇屋義助の最後は驚くほどの急死だったのでしょう。

脇屋義助が亡くなると、幕府軍の猛反撃が始まりました。

幕府方の細川頼春も攻勢に出て大舘氏明の世田城を陥落させています。

四国は再び幕府軍が優勢となりました。

脇屋義助の子の脇屋義宗は四国には渡りませんでしたが、その後の南朝の為に尽力しており、父の遺志を継いだと言えるでしょう。

尚、現在の愛媛県今治市には脇屋義助廟があり、これが脇屋義助のお墓となっています。

ただし、現在の脇屋義助のお墓は江戸時代に再建されたものです。

名前住所電話番号(お問い合わせ)
脇屋義助廟愛媛県今治市国分4-1-330898-36-1118

この記事は南北朝武将列伝、足利氏と新田氏、新田三兄弟と南朝を元に作成しました。

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