古代日本 古墳時代 天皇の治世

倭王武の上表文を簡単に分かりやすく解説

2024年4月28日

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宮下悠史

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名前倭王武の上表文
発行者倭王武
届け先宋の順帝
いつ478年
掲載宋書倭国伝

倭王武の上表文は、478年に倭王武が宋の順帝に宛てて送った文書を指します。

倭の五王は有名ですが、宋書や南斉書、梁書を見ても大した記述はなく、倭の五王の上表文だけがしっかりとした資料と言っても過言ではないでしょう。

倭王武の上表文は保管されてあったものを記録したものであり、文章の改編などは行われていないのではないかと考えられています。

倭王武の上表文からは当時の倭国がどの様に考えていたのかや、当時の国際情勢が色濃く反映されているとされています。

それらを考慮すると極めて重要な資料だと言えるでしょう。

ただし、三国志で有名な陳寿の魏志倭人伝に比べると、内容はかなり薄く邪馬台国卑弥呼に比べると注目度は低いと言わざるをえません。

尚、倭王武の上表文の訳に関しては、河内春人氏の『倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア』の書籍を参照としてあります。

倭の五王の書籍では倭王武の上表文を4つに分けて解説してあり、それを元に記載しました。

因みに倭王武の上表文を書いた倭王武は雄略天皇やワカタケル大王と同一人物だとも考えられています。

倭王武の上表文の内容

宋への忠誠

倭王武の上表文の最初の一文は次の様になっています。

宋より封じられた倭国は遠くにあり、蕃国として海外にあります。

昔から祖先は自ら甲冑を身につけて山や海を渡り歩き、休まることはありませんでした。

東は毛人五五ヵ国を征伐し、西は多くの夷狄六六ヵ国を服属させ、海を渡って半島の九五ヵ国を安定させました。

宋皇帝の王道は平安であり、その土地を拡げて都を遥かにしております。

代々朝貢して、その期日を間違えることはありませんでした。臣(武)も愚かとはいえ、恐れながら王位を継ぎ、治めるところを率いて宋朝に心を寄せています。

朝貢の道は百済を経由するものであり、船舶を整えております。

上記の文を見ると、倭王武は宋の皇帝に対し忠誠心を以っている事を高々に宣言しています。

倭王武は遜った態度で宋の順帝に対して接しているわけです。

ただし、倭王武は心から宋への忠誠を願ったわけではなく、自国の利益の為に宋の冊封下に入った事は言うまでもないでしょう。

高句麗への批判

倭王武の上表文の2段落目では、高句麗を批判する事になります。

ところが高句麗は道理をわきまえず、周囲を併呑することを望み、辺境を侵略し人々を殺し続けています。

そのため常に宋への朝貢が遅滞し、赴くための機会を失ってしまいました。

使節が道を進んでも通じることもあれば通じないこともありました。

亡父の済は、高句麗が宋への通路をふさいだことを怒り、弓兵百万はその正義に感激し、まさに大挙して攻撃しようとしていました。

しかし、にわかに父兄が亡くなり、後少しでそれを成し遂げるところを達成できておりません。

空しく服喪しており、軍を動かさずにおります。

上記の文章を読めば分かる様に、倭国が宋への朝貢を行おうとしても高句麗が妨害して遣使出来ないと述べているわけです。

ここで注目したいのは倭王済が高句麗を討とうとしたが亡くなってしまい、倭王武の兄も亡くなったという事です。

宋書倭国伝には「興死して弟武立つ」とする言葉もあり、倭王興と倭王武が兄弟だった事が分かります。

「興死して弟武立つ」の言葉から、倭王武の上表文の兄は倭王興を指す事は明らかでしょう。

高句麗を討ちたいと願う

倭王武の上表文の三段落目では、倭国は高句麗を討つつもりだと述べる事になります。

そのため軍を止めており、高句麗を破ることを果たせておりません。

いままで兵を訓練しており、父兄の志を実現したいところです。

正義の軍は文武に功を成し遂げんとし、白刃を目前で交えることも厭いません。

もし皇帝陛下の恩徳で強敵高句麗を倒すことができれば、危機を安んじたものとして前功を無にすることはありません。

倭王武倭王済倭王興の遺志を継承し、高句麗を討つつもりだと述べているわけです。

当時の高句麗は北魏とも友好を深めて朝鮮半島の南部の国である新羅や百済を標的にしていました。

倭王武の上表文が出される3年前の475年には百済の首都の漢城が陥落し、蓋鹵王が命を落とし文周王が国を復興させますが477年に暗殺された記録があります。

百済は復興はしましたが、混乱状態だったと言えます。

倭国と百済は友好関係にあり、倭国としても高句麗に対する危機感を抱いていたはずです。

尚、倭国と高句麗の戦いは史書にはありませんが、広開土王碑を見ると倭の五王が朝貢する前の空白の150年の末期に戦争を繰り広げた事になっています。

官爵の要求

倭王武の上表文の最後に、倭王武が宋の順帝への要求が書かれています。

ひそかに自分には開府儀同三司を仮授し、他の者どもにも全員にそれぞれ仮授しており、忠節を促しております。

最後の一文で分かる様に倭王武は開府儀同三司に任命してくれる様に宋に願ったわけです。

この頃の宋は北魏に圧迫されており、既に山東半島も失っていました。

宋では高句麗を懐柔する為に、既に開府儀同三司を与えており、倭王武は高句麗と同等の開府儀同三司の官爵を要求した事になります。

倭王武の上表文をみると「他の者にも官爵を仮授している」と伝えており、記録はされていませんが、配下の者たちの名前を挙げて正式に任命して欲しいと願った事にもなります。

当時の東アジアでは中華王朝の配下として軍府を開き配下に官爵を与える府官制が一般的になっていました。

府官制に伴う官爵を倭王武は正式に依頼したのでしょう。

ただし、当時の宋は北魏の脅威があり高句麗を懐柔しようとしており、宋にとってみれば高句麗は倭国ではなく、宋と手を組み北魏と戦って欲しかったはずです。

当時の国際情勢

倭王武の上表文は倭国が自国にとって都合のよい様に、宋の順帝に報告し官爵を得ようとしたとも考えられています。

倭王武の上表文を見ると、高句麗に道を邪魔された事で、朝貢出来なかったとも記録されていますが、似たような話が三国史記の百済本紀の476年にあります。

三国史記によると475年に百済の漢城が落城し、476年に新王となった百済の文周王が宋に謁見を願い出ますが、高句麗に道を塞がれて宋に到達できなかった話があるわけです。

宋書と三国史記の記述を見ると、倭国は477年と478年に宋へ朝貢をしていますが、百済が476年の宋への朝貢は失敗した事になります。

百済が高句麗の妨害により宋への朝貢を失敗したのに対し、倭国の朝貢が成功したのは、百済の復興に倭国が介入したからではないかとみる事が出来ます。

倭国には百済王族の昆支がいましたが、いつの間にか昆支が百済に帰国し重用されています。

こうした事情からも倭国から百済への何かしらの支援があったのではないかと考えられるわけです。

倭王武の上表文を見ると「高句麗に邪魔されて朝貢が出来なかった」とありますが、実際には高句麗に邪魔されて朝貢が出来なかったのは百済の可能性もあります。

先にも述べた様に百済が476年の朝貢で高句麗に妨害された話があるからです。

それらを考慮すると、日本側が事実を捻じ曲げて高句麗に邪魔された事にしてしまったとなりますが、高句麗にしても413年の朝貢で偽の倭国の使者を用意し朝貢したとも考えられています。

自分にとって都合の良い様に捻じ曲げて公表したりするのは、倭国だけが行っているわけではないでしょう。

神功皇后三韓征伐では日本側が勝ったと主張しており、新羅側の記録だと新羅が日本軍を寄せ付けなかった記述があり、広開土王碑では高句麗が勝利を主張しています。

倭王武の上表文に限らず、自国にとって都合の悪い部分は捻じ曲げてしまうのが普通だと言えます。

尚、倭王武の上表文と当時の情勢を考えれば、高句麗に百済と新羅が圧迫され、高句麗に対抗する為に倭国は宋へ開府儀同三司を望み権威を獲得した上で倭国、新羅、百済で同盟を結び倭国が盟主になろうとも考えたのでしょう。

ただし、宋は高句麗に気を遣ったのか倭国に開府儀同三司は認めませんでした。

宋の順帝は倭王武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とし任那、加羅、新羅などの軍権は与えましたが、開府儀同三司を名乗らせなかったわけです。

それでも、倭王武は倭王済と同じく安東大将軍に任命されており、倭国王から倭王へとステップアップしています。

宋の記述を見る限りでは開府儀同三司を任命はしませんが、バランスを取り冷遇したわけでもない事が分かります。

尚、倭王武の上表文が出された翌年である479年に宋は蕭道成への禅譲で滅び、南斉が建国されました。

倭王武は南斉に朝貢したのかは定かではなく、南斉の後継国である梁にも朝貢はしておらず、倭の五王の時代は倭王武の上表文を以って終焉を迎えたとも言えます。

倭王武の上表文からみる日本国内

大和王権の最古の記録

倭王武の上表文から当時の日本国内が見えて来る事になります。

倭王武の上表文の下記の一文に注目した人は多いのではないでしょうか。

東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らげること九十五国

上記から分かるのは、倭王武の先祖の方々が西へ東へと軍隊を派遣し服属しない国を征服したとみる事が出来ます。

この記述が大和王権が日本を支配して行く様を描いた最古の記録だともされているわけです。

倭王武の上表文が記載されているのは中国側の史書ですが、倭王武の上表文を書いたのは日本側という事になります。

記紀の記述で大和王権を考えると、神武東征により神武天皇が大和を本拠地とし、第10代崇神天皇の時代に四道将軍を各地に派遣しました。

崇神天皇は欠史八代で培った国力を背景に東西に軍隊を派遣したと読み取ることが出来るはずです。

第12代景行天皇は自ら九州征伐を行っていますし、息子の日本武尊は熊襲討伐や蝦夷討伐を行っており、大和王権は支配地域を拡大させた話があります。

倭王武の上表文に登場する東西に軍隊を派遣したのは、日本武尊の東西への遠征を指している様にも見えるのではないでしょうか。

倭王武の上表文の一文からは崇神天皇や日本武尊の姿が浮かび上がってくるわけです。

ただし、考古学的に見ると、古墳時代の日本列島では武器、殺傷人骨などの戦争遺物が発見されていません。

弥生時代だと環濠集落が造られたり、矢じりが刺さった人骨が発見されていますが、古墳時代では大規模な戦争の痕跡がない状態です。

それを考えれば東西の敵を討ったと言うのは、倭王武よりもだいぶ前の弥生時代の話だとも考えられます。

日本国内にいた異民族

倭王武の上表文の中で注目したいのが「東の毛人が支配する55カ国」「西の衆夷が支配する六十六ヵ国」を討ったとする記述です。

毛人や衆夷などの言葉は蔑称とも考えられ、当時の大和王権としては東の毛人や西の衆夷などは、日本国内にいる異民族として考えていた節があります。

古事記や日本書紀に各地の土蜘蛛を討伐した話しがあり、大和王権に服属しない勢力を蔑称で呼んでいたのでしょう。

九州王朝説の否定

倭の五王たちは大和王権の天皇ではなく、九州王朝の王だとする説があります。

これが、九州王朝説です。

倭王武の上表文を見ると「東の五十五ヵ国、西の六十六国」を討った事になっていますが、九州王朝が存在したならば、九州は西のはずれにあり西の六十六国は討つ事が出来ないはずです。

九州王朝説だと九州王朝の首都は大宰府であり、ここから西の六十六国を討つというのは地理的に無理があると感じました。

ただし、東西に敵を討つというのは、当時としては周辺の敵を討つという意味でもあり、解釈に仕方によっては九州王朝説もありですが、現在では九州王朝説を信じる人は殆どいません。

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