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倭王興は世子の立場で宋へ遣使を行う

2024年3月30日

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宮下悠史

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名前倭王興
生没年不明
時代古墳時代
勢力倭国
一族父:倭王済 弟:倭王武
年表462年 宋へ遣使
コメント倭の五王の中で唯一世子の立場で朝貢

倭王興は倭の五王の三番目の人物であり、宋書や梁書に名前が登場する人物です。

倭王興は倭王武の兄であり、倭王済の子でもあります。

倭王興は462年に朝貢していますが、倭国王としての朝貢ではなく、世子の立場で朝貢を行いました。

倭国王としてではなく、倭王興は世子として朝貢を行っており、倭王興には簡単に倭王として認められない事情があったのではないかと考えられています。

倭の五王の中で倭王武は雄略天皇だと考える識者は多く、一代前は安康天皇であり「康」と「興」の読み方が同じである事から、安康天皇に比定される事が多いです。

今回は倭の五王の中で唯一世子として宋へ遣使した倭王興を解説します。

尚、他の倭の五王の面々は下記の通りとなっています。

世子の立場で朝貢

462年に倭王興が宋へ遣使した事が宋書や梁書に記録されています。

当時の宋は文帝が殺害された後の混乱もあり、孝武帝の時代になっても皇族が反乱を起こすなど不安定な時代でした。

こうした中で、倭王興が世子の立場で倭王済の死を告げ宋への朝貢を行っています。

ここで注目したいのは、倭王興が倭王としてではなく、世子の立場として朝貢を行っている事です。

倭の五王の先代である倭王讃倭王珍、倭王済は倭国王として宋への朝貢を行いましたが、倭王興は諸侯の後継者を指す言葉である世子として宋へ遣使しました。

倭の五王の著者である河内春人氏らによると、下記の3つの解釈が出来ると言います。

興が既に宋から倭国王世子としての地位を認められていた。

倭王済が興を後継者として独自に定めていた。

興は後継者ではなかったが宋への遣使で世子を自称した。

宋書倭国伝によると興の朝貢に対し、宋の孝武帝は次の詔を発行しています。

※宋書倭国伝より

倭王世子の興。

代々の忠義があり、藩を外海に為し、皇帝の教化を受け国を統治し、忝くも朝貢を修め新たに王位を継ごうとする。

ここに爵号を授け安東将軍・倭国王とする。

宋の孝武帝の詔からは、倭王世子となっており、既に興が宋から世子として認められていた可能性があります。

しかし、父親の倭王済は倭王ではなく倭国王であり、興は倭国王世子が正しいとも考えられ、興は朝貢を行った時に倭王世子を名乗り、詔の方もそれを合わせて倭王世子としたのではないかとも考えられます。

興が倭国王としてではなく、世子の立場として朝貢を行ったのは、倭国内で混乱があり、興としては宋へ朝貢を行い宋の権威を背景に倭国王になろうとしたとみる事も出来るはずです。

倭王興は安康天皇なのか

倭の五王の最後の倭王武は雄略天皇だと考える人が極めて多いです。

雄略天皇の兄が安康天皇であり、倭王武の兄が倭王興であるため、日本側と中国側の記録が重なり、倭王興は安康天皇に比定されています。

倭王武と倭王興の父親は倭王済であり、第21代雄略天皇と第20代安康天皇の父親は、第19代允恭天皇であり、この点も一致すると言えるでしょう。

そうなると倭王興が世子としての立場で宋へ朝貢を行ったのには、安康天皇の即位時の状況をみればいいとも考えられるはずです。

安康天皇は允恭天皇に指名されて天皇になったわけではなく、允恭天皇が後継者に指名したのは兄の木梨軽皇子となります。

これを考えれば世子は木梨軽皇子と見る事も出来るはずです。

日本側の記録を見ると木梨軽皇子は同母妹と通じるなどの素行があり、大臣達から問題視され人望を失った話があります。

世子なのに後継者になれなかった事を考えれば、木梨軽皇子が宋へ朝貢を行い助けを求めたとみた方が自然の様にも感じました。

ただし、木梨軽皇子は流罪になっており天皇にはなっておらず、倭王武が478年に宋へ遣使した時には、武は兄の倭王興が亡くなったと伝えているわけです。

それを考えれば木梨軽皇子よりも安康天皇の方が倭王興に近いと言えるでしょう。

尚、安康天皇の在位は3年ほどしかなく、倭王武が倭王興が亡くなった事を通達したのは、478年となっています。

倭王興が宋へ遣使したのは462年であり、倭王興が安康天皇であるならば亡くなってから、10年以上も経過してから、宋に朝貢を行った事になります。

日本側の歴は正確さに欠けるとも言われ1年を2年で計算する春秋歴を使っていたなどの話もありますが、春秋歴で考えれば安康天皇の在位は3年未満となります。

倭王興の記述を取ってみても、日本側と中国側の史書の整合性を取るのは極めて難しいと言えそうです。

それでも、478年までには倭王興が亡くなっていた事は間違いないでしょう。

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