王昌は後漢末期や三国志の時代の人です。
出身地などは記録が無く分かっていません。
王昌の記録は正史三国志や後漢書の本文にはなく、正史三国志の裴松之が残した注釈である献帝起居注に名前が見えます。
長安で李傕と郭汜が争いますが、献帝は皇甫酈を使者として派遣しました。
皇甫酈は仲裁に失敗する事になります。
この後に、皇甫酈と胡邈が口喧嘩となり、最終的に皇甫酈は都から去る事になります。
王昌は李傕に皇甫酈を追いかける様に命じられましたが、王昌は皇甫酈の人間性を知っていたので、見逃した話があります。
皇甫酈を見逃した事を考えると、王昌は善意の人だとも言えるでしょう。
尚、歴史を見ると王昌の名前は複数人確認出来ますが、今回紹介するのは後漢末期に献帝に仕え虎賁になった王昌です。
追撃命令
皇甫酈は献帝の詔勅により、李傕と郭汜の争いを仲裁しようとしました。
郭汜は納得しましたが、李傕は納得せず、皇甫酈に対して怒りを向けます。
李傕の態度を皇甫酈はそのまま献帝に伝えようとしますが、侍中の胡邈が報告書を書き換えようとし皇甫酈と口論となります。
献帝は皇甫酈を庇い長安にいては危険だと判断し、長安を去らせる様に命じました。
皇甫酈が長安を出る事を知ると、李傕は虎賁の王昌に追撃する様に命令したわけです。
王昌は虎賁だったと記録されていますが、虎賁は前漢に設立された皇帝の親衛隊となります。
これを考えると、王昌は武芸に秀でており、李傕が献帝の側に置いたのでしょう。
尚、李傕にとってみても献帝に不穏な事をされては困る訳であり、王昌を監視に意味で献帝の側に置いた可能性もあります。
皇甫酈を見逃す
王昌は李傕から皇甫酈の追撃を命じられますが、献帝起居注には次の記述が存在します。
※献帝起居注より
王昌は皇甫酈が忠義で正しい人間であると知っていたから、見逃して行かせた。
王昌は皇甫酈の人間性を知っており、逮捕する気は全くなく見逃した事になります。
実際の皇甫酈は剛毅で、自分を曲げない性格にも見えますし、王昌も高く評価していたのでしょう。
皇甫酈が黄巾の乱で大活躍し、大尉や車騎将軍を務めた皇甫嵩の一族だったというのもあるのかも知れません。
しかし、王昌が皇甫酈を見逃した事で、皇甫酈は救われた事は間違いないでしょう。
王昌は李傕の元に戻ると、「皇甫酈を追いかけたが追いつく事が出来なかった」と嘘の報告をしました。
これにより李傕も追撃を諦めたのか、皇甫酈は救われたわけです。
献帝は皇甫酈を外に出す事で、諸侯の助けなど期待する部分はあった様に思います。
しかし、王昌が助けた皇甫酈は、これを最後の歴史から姿を消します。
王昌も皇甫酈を救った事しか記録が無く、この後にどうなったのかは不明です。
尚、三国志演義にも王昌は登場し、正史三国志と同様に皇甫酈を見逃しました。