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界橋の戦い

2023年3月2日

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宮下悠史

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界橋の戦い(かいきょうのたたかい)192年
勢力袁紹公孫瓚
兵力数万4万
指揮官袁紹、麹義公孫瓚、厳綱
勝敗勝利敗北

界橋の戦いは正史三国志にも記述があり、袁紹公孫瓚の勢力が戦いました。

界橋の戦いまでは公孫瓚の方が優勢でしたが、界橋の戦いを境に袁紹が優勢になっていきます。

袁紹の軍には涼州出身の麹義がおり、公孫瓚の騎馬戦術を封じ込めた事で勝利を得たと言えるでしょう。

界橋の戦いは赤壁の戦いや夷陵の戦いに比べると、知名度は低いと思うかも知れませんが、北方の趨勢を決めた重要な戦いでもあります。

尚、界橋の戦い後に公孫瓚は劉虞を殺害するなどもあり、没落していき199年の易京の戦いで最後を迎える事となります。

今回は三国志の世界で袁紹と公孫瓚の優劣が逆転した界橋の戦いを紹介します。

界橋の戦いが起きた経緯

董卓が長安に遷都し献帝を擁立すると、反董卓連合は瓦解しました。

袁紹は逢紀の策に従い公孫瓚の南下を促した上で、冀州牧の韓馥から冀州を譲渡される事になります。

長安の献帝は劉和を派遣し、父親の劉虞に迎えに来させようとしますが、袁術が劉和を拘留しました。

この時に公孫瓚は劉虞に「袁術を信じるべきではない」と進言しますが、劉虞は聞かなかった事もあり、公孫瓚は従弟の公孫越を袁術の元に派遣しています。

袁紹が任じた周昂、周昕らと袁術が任じた孫堅が争う事となります。

こうした中で公孫越が流れ矢にあたり戦死する事態となります。

公孫瓚は「公孫越が死んだのは袁紹のせいだ」と袁紹を恨みました。

袁紹は公孫瓚を懐柔する為に、渤海太守の印綬を公孫瓚の従弟である公孫範に贈りますが、公孫瓚の怒りは解けなかったわけです。

これにより公孫瓚と袁紹の対立が深まり、界橋の戦いに向かっていく事となります。

公孫範は公孫瓚に合流し、公孫瓚は2万の兵で南下すると、青州黄巾賊30万を破るなど、凄まじい程の武勇を見せつけました。

この時の公孫瓚の軍は袁紹の軍を圧倒していたと伝わっています。

公孫瓚と袁紹の軍が界橋で対峙する事となります。

公孫瓚が優勢

当時の公孫瓚の軍は白馬義従とも呼ばれており、北方で恐れられていました。

しかし、界橋の戦いでは袁紹の軍には騎馬隊との戦い方を熟知していた麹義がいたわけです

英雄記によると界橋の南方二十里の地点で合戦したとあります。

界橋の戦いでは公孫瓚の歩兵3万が方陣を作り、騎兵が翼の如く左右に展開したとあります。

公孫瓚の左右の兵は、それぞれが5千であったと記録されており、英雄記の記述では公孫瓚の兵力は4万という事になります。

公孫瓚の軍に対し、袁紹軍の先陣となったのが麹義の八百の兵であり、その左右には弩隊が配置されました。

袁紹自身は歩兵数万を率いて、後方に陣取ったとあります。

袁紹は数万の兵を擁していた話がありますが、この時には兵の数では公孫瓚の方が優勢だったのではないか?と考えられています。

さらに言えば、公孫瓚の数万の軍と戦う麹義の軍は、弩隊を合わせても2800しかいません。

麹義の策

麹義は涼州出身であり、騎馬対策に熟知していました。

涼州では遊牧民・羌族との戦いが多くあり、騎馬対策には慣れていたのでしょう。

しかも、麹義の軍は精鋭揃いで勇敢だったとあります。

公孫瓚は麹義の兵が少ないのを見るや騎兵で攻撃し、踏みつぶそうとしました。

これに対し、麹義の兵は全員が楯の下に伏せ、動こうとせず、公孫瓚の兵が数十歩の所まで来くると、一斉に立ち上がったとあります。

ここで砂塵を巻き上げ、大声を出し麹義の軍は、前進して公孫瓚の軍とぶつかる事になります。

これが界橋の戦いの緒戦になるのですが、麹義軍の弩も放たれ、公孫瓚の軍は次々と倒れました。

界橋の戦いの緒戦で公孫瓚が任命した冀州刺史の厳綱も討死するなど、公孫瓚の軍は大損害となった事でしょう。

麹義の兵が楯の下に伏せていて一斉に立ち上がり、声を張り上げるなどは、公孫瓚の騎馬隊を驚かせるための作戦だったと考えられています。

袁紹の漢気

公孫瓚の軍は敗走し界橋まで後退しました。

公孫瓚の殿(しんがり)が界橋の橋の上で戦いますが、麹義は再び公孫瓚の軍を破る活躍を見せます。

麹義は、さらに公孫瓚を追い詰め、遂には公孫瓚の本陣に到達し牙旗を奪いました。

公孫瓚の兵は敗走し散り散りとなり、界橋の戦いは袁紹軍の勝利になったかに思われました。

袁紹自身も勝利を確信し防備を設けず、数十の弩兵と大矛を手にした百人ほどと一緒にいるだけの無防備な状態でいたわけです。

ここで公孫瓚配下の逃走中だった兵士らは、無防備な袁紹の軍を見つけると、攻撃を仕掛けてきました。

公孫瓚の兵は二千騎いた話しもあり、数の上では袁紹を上回った事になります。

袁紹の本陣にいた田豊は、袁紹を下がらせ様としますが、袁紹は兜を地面に叩きつけ徹底抗戦の構えを見せています。

袁紹が漢気を見せたとも言えます。

公孫瓚の兵も袁紹の本陣だと気付かず、袁紹の兵が必死で攻撃してくるだけではなく、麹義も救援にやってきた事から、公孫瓚の兵は遂に撤退しました。

これにより界橋の戦いは袁紹の勝利に決まったわけです。

界橋の戦いは麹義がいなければ勝利する事は出来ず、最後に袁紹を救ったのも麹義であり、麹義の為の戦いだったとも言えるでしょう。

界橋の戦いを境にして、袁紹と公孫瓚の攻守が入れ変わり、199年には袁紹が易京の戦いで公孫瓚を倒し河北の雄となりました。

界橋の戦いは袁紹の飛躍の為の戦いだと言えます。

尚、界橋の戦いで大活躍した麹義ですが、後に袁紹により処刑されています。

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