その他 三国志 後漢

韓馥(かんふく)は強大な勢力を持っていたのに袁紹に降伏

2022年12月28日

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宮下悠史

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名前韓馥(かんふく) 字:文節
生没年生年不明ー192年
時代三国志、後漢末期
年表189年 冀州牧となる
190年 反董卓連合
191年 袁紹に冀州を譲る
画像©コーエーテクモゲームス

韓馥の字は文節であり正史三国志にも名前が登場する人物です。

韓馥は董卓から冀州牧に任命されます。

袁紹が渤海太守となると、最初は袁紹を警戒しましたが、後には橋瑁の言葉もあり、袁紹や曹操の呼びかけに応じ反董卓連合に参加しました。

しかし、韓馥は前線で戦おうとはせず、冀州の肥沃な土地を生かした兵糧輸送などを、行っていたと考えられています。

董卓が長安に遷都すると、関東の地では群雄割拠となり諸侯同士の争いとなります。

こうした中で、韓馥は袁紹と対立もしましたが、最終的には冀州の地を袁紹に譲りました。

韓馥の方が袁紹よりも圧倒的に優勢だったにも関わらず、韓馥は公孫瓚を恐れ袁紹に冀州を譲渡したわけです。

その後は張邈の元などに行きますが、最終的には厠で自害しています。

因みに、韓馥は肥沃な地と沮授、荀彧、張郃などの臣下がいたのに、袁紹に敗れるという残念な君主でもあります。

韓馥は乱世に向かない性格ではあった様にも感じました。

尚、三国志演義の汜水関の戦いで韓復配下の潘鳳が華雄と戦った話がありますが、正史三国志に潘鳳の名前はありません。

その為、潘鳳は三国志演義の創作のキャラだと言えるでしょう。

冀州牧となる

韓馥は正史三国志の武帝紀の記録によると、豫州潁川郡の出身で御史中丞だった話があります。

潁川の名士の一人でもあったのでしょう。

韓馥は袁氏の役人だった話もありますが、前半生は逸話が無く、不明な部分が多いです。

189年に大将軍の何進宦官に暗殺されると、董卓が実権を握りました。

董卓は韓馥を冀州牧に任命しています。

この頃に都では周毖許靖が人事を担当しており、韓馥は周毖が董卓に推挙した事で冀州牧になった話があります。

韓馥は冀州に行きますが、幸運にも冀州は人口も兵糧も多く、非常に恵まれた地域だったわけです。

董卓が少帝を廃位し献帝を擁立させようとすると、袁紹が反発し都を出ました。

董卓は不本意ながらも汝南袁氏の名声を鑑み、袁紹を渤海太守に任命しています。

渤海郡は冀州にあり、名家出身の袁紹が韓馥の地域を訪れた事になるでしょう。

英雄記によれば袁紹を警戒した韓馥は、数人の従事を派遣し、袁紹を監視させ動きを封じたとあります。

袁紹は名族であり何進の下では宦官撲滅を進言するなど、苛烈な人物であった事から、警戒していたのでしょう。

この時点での韓馥は董卓から派遣された冀州牧であり、董卓に味方する態度を取っていたと考えられます。

劉子恵の進言

東郡太守の橋瑁は三公からの手紙だと偽書を作成し、董卓が国にとって害になっている事と、義兵を望んでいると州郡に流布させました。

韓馥は橋瑁の手紙を読むと「董卓に味方しようか、反董卓に味方するべきか」で悩み配下の者達に相談する事になります。

この時に韓馥は悩みますが、劉子恵は「国の為になる事をすればよい」と述べます。

韓馥は劉子恵の言葉により迷っていた事を恥じました。

劉子恵は先頭に立って挙兵するのではなく、他国の様子を見てから挙兵しても遅くはないと述べます。

冀州が裕福だった事から、遅れて挙兵しても功績では負けないと劉子恵は考えました。

韓馥は劉子恵の進言に従い動く事となります。

反董卓連合

韓馥は袁紹に手紙を送り、董卓の悪事を語り、袁紹の挙兵を認める事となります。

190年に袁紹が挙兵すると、韓馥も袁紹に従い反董卓連合に参加しました。

ただし、韓馥は前線に立って戦ったわけではなく、冀州の経済力を生かし兵站を繋げる役目を担った様です。

反董卓連合は多くの諸侯が集まりはしましたが、戦意は低かったとも伝わっています。

それでも、孫堅曹操、鮑信は戦意があり、張邈が衛茲を派遣するなどもありましたが、他の諸侯は進んで戦おうとはしませんでした。

曹操、鮑信、衛茲などは董卓軍の徐栄に大敗北を喫しますが、孫堅が陽人の戦いで胡軫を破り、董卓は洛陽を焦土と化し長安に遷都しました。

皇帝擁立計画

董卓は献帝を擁立しますが、少帝と母親の何氏を李儒に命じて毒殺しています。

反董卓連合の総大将である袁紹は献帝を天子として認めらおらず、劉虞に皇帝になって貰おうと考えました。

袁紹による劉虞擁立計画に、曹操や袁術は反対しましたが、韓馥は賛成した話が残っています。

袁紹の劉虞擁立計画は、劉虞本人も断った事で失敗に終わりました。

この頃に荀彧が戦乱で困窮している事を知ると、韓馥は騎兵を派遣し自軍に招き入れいています。

後に曹操から「我が張子房(張良)」と言われた荀彧が、韓馥の配下に加わりました。

袁紹との対立

韓馥は袁紹の名声が凄まじい事に気が付くと、危険を察知したのか袁紹への兵糧供給をストップしています。

韓馥は袁紹の劉虞を皇帝に擁立する事には賛成したのに、何故か袁紹と敵対する様な行動を取ります。

この時の韓馥は、袁紹に兵糧を送らなければ、臣下の者たちや兵士が飢えて、いなくなり消滅すると考えたのでしょう。

こうした韓馥の行為は袁紹からしてみれば、不信感があったはずです。

ただし、この時点では冀州を手にしているのは韓馥であり、兵糧も兵士の数も袁紹を圧倒しており、袁紹と韓馥が正面から戦えば韓馥が勝利していたでしょう。

それでも、袁紹は名門汝南袁氏の出身であり、名声で言えば韓馥を圧倒していた事実があります。

物資は韓馥が上、名声は袁紹が上の状態だったとも言えます。

麹義の裏切り

韓馥の部下で北方の羌族の戦い方を熟知していた麹義が謀反を起こしました。

韓馥は麹義を敗走させ、鎮圧に成功します。

韓馥に敗れた麹義は行き場を失うと、袁紹は麹義を匿いました。

当時の袁紹は韓馥からの兵糧を止められた事で、韓馥を恨んでいたとも伝わっています。

ただし、袁紹は韓馥や諸侯からの援助が無ければ、勢力を維持できない程の弱小勢力でもあったはずです。

逢紀の策

袁紹は困窮しますが、配下の逢紀が「韓馥が治める冀州を奪わねば勢力を挽回する事が出来ない」と述べます。

しかし、袁紹は韓馥の勢力が強大であるのに対し、自勢力は一歩間違えれば壊滅する事実に、冀州を取る難しさを吐露しました。

ここで逢紀は、北方で強大な勢力を持つ公孫瓚を動かし南下させ、韓馥に使者を派遣して利害を説けばいいと進言しています。

逢紀は公孫瓚を使って韓馥を脅し、韓馥には袁紹に冀州を譲渡する様に説得すればよいと述べたわけです。

袁紹は逢紀の進言を実行する事となります。

袁紹は韓馥に正面から戦いを挑んでは勝つ事は出来ないと考え、戦わずに勝つ方法を選択したとも言えます。

荀諶の説得

公孫瓚が兵を率いて南下すると、韓馥は予想通りに恐怖する事となります。

このタイミングで袁紹は、荀諶、張導、郭図、高幹らを韓馥の元に派遣しました。

荀諶らは公孫瓚が南下し諸郡が降っているとし、袁紹も東進しているから、今の韓馥は危ういと伝えます。

韓馥は荀諶らに「どうすればいいのか」と訪ねました。

荀諶らは「仁徳、度量、決断力、恩徳」など様々な面で、袁紹と韓馥を比較させる事にしました。

韓馥は「全て袁紹には及ばない」と答えています。

荀諶らと韓馥の比較を使った問答に関しては、戦国策のの趙の幽穆王司空馬の話にもあり、昔からあった手法なのでしょう。

韓馥は自信を無くし、荀諶は「冀州を袁紹に譲る事が最良の選択」と述べました。

荀諶は韓馥が袁紹に冀州を渡せば「英雄に従ったとする名声が得られる」と伝えると、韓馥は袁紹に冀州を譲渡しようと決断します。

荀諶らは韓馥の臆病な性格を、上手く刺激したとも言えそうです。

韓馥は袁紹に冀州を渡そうとしたわけですが、当時の韓馥の配下には沮授や張郃がおり人材が揃っていました。

それを考えると、韓馥は必要以上に恐怖し、袁紹に冀州を譲ろうとした事になります。

部下の諫め

韓馥は袁紹に冀州を譲ると宣言しますが、部下の耿武、閔純・李歴・沮授らは反対しました。

耿武らにしてみれば冀州は裕福で、食料も兵士も豊富なのに対し、袁紹軍は困窮し弱小勢力だと伝えたわけです。

韓馥は必要以上に恐れ過ぎていると耿武らは意見しました。

耿武らにとってみれば、弱小勢力である袁紹に従う必要はないと考えたのでしょう。

沮授の様な頭が切れる人物であれば、韓馥が弱小の袁紹の降伏するのは「意味不明」だと考えたのかも知れません。

これに対し、韓馥は次の様に述べました。

※正史三国志 袁紹伝より

「私は過去に袁氏の役人だった。

私の才能は袁紹に及ばないし、有徳の者を選んで位を譲るのは、古人が尊重した美徳でもある。

其方たちは何をそんなに心配しているのだ」

韓馥は逆切れしたのか諸将の諫めを聞きませんでした。

耿武らは袁紹に国を譲れば、韓馥にとっては不利になると進言しても、恐怖心が強い韓馥には届かなかったわけです。

河陽に駐屯していた都督従事の趙浮と程奐は、韓馥が降伏する話を聞くと、韓馥の元に駆け付けました。

この時に趙浮と程奐は軍鼓を打ち鳴らし、朝歌の清水口に駐屯していた袁紹を挑発した上で、韓馥の元までやって来たわけです。

この行動をみるに趙浮と程奐は、高い戦意を持っていた事が分かります。

趙浮と程奐は袁紹は張楊と南匈奴の於夫羅を味方にはしたが、弱小勢力であり、戦わせて欲しいと述べます。

しかし、韓馥は許さず趙浮や程奐の意見を退けました。

袁紹の配下となる

韓馥は袁紹に印綬を渡し冀州を譲渡しました。

これにより韓馥は袁紹の配下となったわけです。

韓馥配下だった田豊、沮授、審配なども袁紹に従う事になります。

韓馥に仕えていた10人の従事は逃亡しますが、袁紹は田豊に命じて彼らを討たせました。

袁紹に冀州を譲った韓馥は、霊帝の時代に張譲と共に、権力を握った宦官である趙忠の屋敷で、暮らした話があります。

韓馥は降伏はしましたが、袁紹が自分を害しはしないろうか?と不安だった様に感じています。

袁紹に降伏しても韓馥は安心は出来なかった事でしょう。

こうした中で韓馥が過去に冷遇した朱漢が、韓馥を恨み袁紹に気に入られたいと考え、独断で韓馥の屋敷を囲みました。

韓馥は朱漢の兵に屋敷を囲まれると矢倉に逃げますが、韓馥の子は捕まり朱漢にハンマーで足を砕かれています。

ただし、袁紹はこの時点では韓馥を殺害しようとは考えていなかった様で、勝手に行動を起こした朱漢を処刑しました。

袁紹にとっても韓馥の扱いは慎重にしなければいけないと考えていたのでしょう。

韓馥の最後

韓馥は朱漢の一件が起きてから、恐怖におびえる日が続いたと伝わっています。

韓馥は袁紹に手紙を送り冀州から逃亡しました。

韓馥は陳留太守の張邈の元に身を寄せます。

張邈は漢の八厨に数えられ、困っている者を救う為なら、財産を惜しまなかったとも言われている人物です。

韓馥も張邈の本が一番安全と考えたのでしょう。

しかし、袁紹の使者が張邈の元にやってきて、使者が張邈に耳打ちしたと知ります。

この時に韓馥は「張邈は袁紹に言われて自分を暗殺するつもりだ」と考えました。

韓馥は切羽詰まり、厠で自害し最後を迎える事になります。

袁紹の使者が張邈に何といったかは分かっておらず、早とちりで韓馥は亡くなってしまった可能性もある事でしょう。

韓馥の評価

韓馥ですが、正史三国志にも書かれている様に臆病者とされています。

韓馥の性質は劉璋劉禅らと同じ様に、邪険は少ない人だった様に感じました。

韓馥が袁紹に降伏する時に、耿武、閔純、李歴、沮授、趙浮、程奐らが諫める姿は、劉備の入蜀に反対する黄権王累などを彷彿させます。

それを考えると韓馥は、臣下には恵まれた部分がある様に思いました。

韓馥は袁紹に冀州を譲りますが、古人が位を譲る場合は、他人の意見で譲った者は失敗しているとも感じています。

戦国時代に燕王噲は宰相の子之に位を譲り失敗しています。

それと、劉璋などは降伏した相手が劉備であり、劉備は基本的に相手の命を奪ったりする事は少なく、劉璋も殺害されておらず降伏するにしても相手を選ぶ必要はあると考えます。

やはり、国を譲るにしても「単に譲渡する」では、心の平穏も保てず、身が滅びる可能性もあると言う事でしょう。

韓馥は乱世には向かない男だと感じました。

韓馥が田豊を遠ざけたのは、劉璋が法正を使いこなす事が出来なかったのに似ていると感じています。

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