伊都国は魏志倭人伝や日本書紀に名前が登場する倭の国の一つです。
伊都国は現在の糸島市にあったとも考えられ、邪馬台国の時代には一大卒が設置され倭国の重要拠点となっています。
一大卒は諸国を恐れさせ中国では刺史の様な役割を担ったと伝わっています。
魏志倭人伝の記述では帯方郡からの使者が伊都国に留まると記載されており、魏の使者に取っても重要な地域だったはずです。
尚、日本書紀に仲哀天皇が熊襲討伐の為に、九州に訪れた時に伊都国の話があり、合わせて解説します。
伊都国の詳細
伊都国の位置
末盧国が現在の松浦郡だと考えられており、末盧国から東南に陸路を五百里進むと伊都国がある事になっています。
邪馬台国の場所に関しては様々な事が言われていますが、伊都国に関しては現在の糸島市だと多くの論者が語る所となっています。
伊都国の位置は様々な事をいう専門家がいますが、基本的には九州から出る事はありません。
伊都国から東南に100里移動すると奴国があると書かれています。
伊都国の位置に関しては、現在の北部九州にある伊都国だと覚えておけばよいでしょう。
どの様な国なのか
魏志倭人伝によると伊都の国には長官がおり爾支(じき)、副官を泄謨觚(せつぼこ)、柄渠觚(へいきょこ)だと記述されています。
さらに、千余戸の人家があり代々王がいて、女王国の支配を受けて来たと言います。
この記述からだと、卑弥呼や台与の時代は、邪馬台国の属国だと考えればよいはずです。
伊都国の人口は千余戸とあり、邪馬台国の7万戸、投馬国の5万戸、奴国の2万戸と比べると人口は、かなり少ないと言えるでしょう。
隣の末盧国は人家が四千余戸とあり、末盧国よりも伊都国は人口が少ない事になります。
ただし、伊都国には一大卒が設置されており、倭国の中での重要度で言えば、極めて髙いはずです。
尚、魏略には伊都国の人口が1万余戸とあり、一般的には伊都国が重要拠点である事から、魏略の記述が正しく多くの倭人が住んでいたと考えられています。
個人的にも伊都国の重要度の高さから、魏略の1万余戸の方が現実的だと言えるでしょう。
帯方郡の使者が留まる場所
魏志倭人伝によると、伊都国は帯方郡からの使者が往来する場合に留まる場所だと書かれています。
この記述を普通に読めば、魏からの使者は邪馬台国までは行ってはおらず、伊都国に滞在していた事になるはずです。
魏から梯儁や張政らが邪馬台国に来た話がありますが、邪馬台国までの本国まで来たわけではなく、伊都国まで来て留まったのではないか?とも考えられています。
伊都国から隣の奴国と続き投馬国の記述があり、そこから一気に「邪馬台国の水路10日、陸路30日」の記述になってしまうのは、魏の使者が伊都国に留まるだけで、邪馬台国の本国まで行ってはいないからだとも考えられるはずです。
魏の使者が伊都国に留まった事を考えれば、やはり伊都国は重要拠点だとも言えるでしょう。
一大卒が設置
伊都国が邪馬台国や倭国の重要拠点にされる理由ですが、一大卒が設置されている事が大きいと言えます。
魏志倭人伝によれば女王国の北の地域に、一大卒と呼ばれる官が設置されていると記録されています。
一大卒の役目は国々を監視する事が役目であり、倭国の国々は一大卒を恐れていたとあります。
一大卒が伊都国に設置され、中国で言う刺史の様な役目をしていた記述があるわけです。
三国志の世界を見ると監察官として「刺史」がありますが「牧」になると軍事権も持つ事になります。
しかし、伊都国に設置されたのは「刺史」の様な役割だとされており、一大卒に軍事権は無かったのかも知れません。
尚、監察官である伊都国が九州にある事が確実であり、邪馬台国の北にある記載されている事から、邪馬台国九州説の後押しとなっています。
邪馬台国近畿説で邪馬台国が近畿にあったとすれば、一大卒がある北九州までは距離が遠すぎており、近畿から北九州の伊都国で諸国を監察するのは不可能ではないか?とも考えられています。
さらに、魏志倭人伝には伊都国は邪馬台国の北にあったと記述されていますが、近畿説に従い邪馬台国が大和にあったならば、伊都国は西南に位置する事になります。
伊都国と一大卒の位置を考えても、邪馬台国近畿説は無理があると感じました。
伊都国と大和説の否定
邪馬台国大和説や近畿説であっても、伊都国の場所は北部九州にあるとする説が大半です。
飛鳥時代の皇極天皇の時代に、次の記述が存在します。
※日本書紀より
六日。高麗(高句麗)の使人が難波津に泊まった。
二十一日。諸大夫たちを難波の郡に遣わし、高麗国の奉った金銀などの献上物を点検させた。
飛鳥時代に大和王権の本拠地は大和にありましたが、高句麗からの献上物を難波で点検させている事が分かるはずです。
さらに、北部九州と近畿では余りにも距離が離れすぎており、帯方郡の使者が伊都国にいては往復するにも時間が掛かり過ぎると言えるでしょう。
これらの理由から邪馬台国が大和や近畿にあったのであれば、外港は大阪湾に設置するのではないかとも考えられます。
伊都国の位置が北部九州だとすれば、邪馬台国大和説や近畿説は成立しにくい事になります。
その後の伊都国
日本書紀に伊都国の話が掲載されています。
仲哀天皇は熊襲討伐の為に、九州の筑紫に上陸しました。
仲哀天皇が九州まで訪れると、伊都県主の先祖である五十迹手が会見を求めた話しがあります。
伊都県主の五十迹手が伊都国を治める人物だったのでしょう。
五十迹手は八尺瓊、白銅鏡、十握剣を身に着けて現れ、仲哀天皇に天下を平定する様に願いました。
仲哀天皇が九州に訪れた時には、伊都国は大和王権の支配下になっていたはずです。
4世紀前半から中頃(西暦300年から350年)くらいまでには、邪馬台国は滅亡し、伊都国は大和王権の支配下になっていた事でしょう。
空白の150年の間に、伊都国は邪馬台国から大和王権に主が変わったと考える事が出来ます。
尚、仲哀天皇が崩御すると神功皇后が摂政となり、三韓征伐が行われています。
三韓征伐が行われるにあたり、伊都国は邪馬台国時代と同様に、重要拠点になった可能性があると感じました。
因みに、日本書紀によると仲哀天皇は五十迹手を「伊蘇志」と褒め、伊蘇志が訛って伊都国になったと記載されています。
しかし、邪馬台国の時代から伊都国の名称は使われた記録に残っている事から、伊蘇志から伊都国に変わったとする説は天皇家の権威付けの為に作り話だと感じました。