伯陽は周の太史であり、周の滅亡を予言した人物であり、史記の鄭世家にも記述があります。
鄭の桓公は王畿に領内を持つ邦君でしたが、伯陽のアドバイスに従い民を洛水の東に遷しました。
鄭の桓公や武公は伯陽のアドバイスに従い、西周王朝が崩壊した時に、周の軍隊を使い東虢と鄶を討ち中原の地に新たに鄭を誕生させる事になります。
伯陽に関しては周本紀に伯陽甫なる人物が登場し、国語の鄭語には伯陽父なる人物が登場します。
中国語版のウィキペディアを見ると、伯陽甫と伯陽は同一人物として扱われており、史記の伯陽と鄭語の伯陽父も話の内容から明らかに同じ人物だと言えます。
こうした理由もあり、今回は伯陽と伯陽甫、伯陽父は全て同一とみなし解説します。
尚、伯陽に関しては国語の鄭語の内容が最も詳細に書かれています。
ただし、同時代の資料である金文には伯陽だと思われる名前が発見されておらず、伯陽は結果を知った上で想像された人物だとも考えられています。
余談ですが、老子の字は伯陽であり、鄭の桓公に助言をした伯陽との同一人物説もあります。
地震が西周王朝崩壊の予兆
周の幽王の2年に成周から三川地方に地震がありました。
記録が残る程の地震だったと考えられ、社会不安を引き起こしたとも考えられます。
この地震を目の当たりにした伯陽(伯陽甫)は次の様に述べました。
※史記 周本紀より
周は滅びようとしている。天地の気が正常に運行されているならば秩序は失われないだろう。
秩序が無くなるのは人間が乱すからである。
陽気が下に向かい陰気が迫って上に昇れば地震が起きる。
三川の地に地震が起きたのは、陽気が行き場を失い陰気が塞がれたからだ。
陽気が失われ陰気の下にくれば、必ず水源が塞がれ、水源が塞がれば国は亡びる。
水土の気が通じれば、潤うて作物を生じ民の用となるが、土に潤いが無ければ民は貧しくなり国が滅びるのである。
昔、伊・洛の水が尽きて夏王朝は滅び、黄河が枯れて殷は滅亡した。
現在の周の徳は夏や殷の末期に似ており、川原も塞がれているが、これでは水が尽きてしまう。
国の存亡は山川の力であり、山が崩れ川が尽きるのは亡国の象徴である。
川が尽きれば山が崩れる。
もし国が滅びるとしたら10年以内だろう。
十は数の終わりであり天が棄てるのは10年を超える事はないだろう。
伯陽は10年以内に西周王朝が崩壊すると予言したわけです。
伯陽は秩序の乱れは人間が起こすとも述べており、周の幽王の徳の乱れにより西周王朝は崩壊に向かうとも述べています。
現在で考えれば、地震は人間の徳ではなく、地殻変動により起こるものだと考えるのが普通だと言えます。
しかし、伯陽が徳の乱れと地震を結び付けているのは、古代の天変地異の考え方が大きく反映していると言えるでしょう。
尚、戦国七雄の趙が滅亡する時も大飢饉と大地震が起きており、周の滅亡と被る部分があると感じています。
周の幽王の時代は寒冷化により食料が不足した時代でもあり、大変な時期に地震が起きてしまったとも言えます。
伯陽と鄭の桓公
伯陽の仰天プラン
鄭の桓公は西周王朝の司徒となり、天下の信望を集めました。
しかし、周は末期であり王室の乱れを心配し伯陽に相談する事になります。
鄭の桓公は伯陽に禍から逃れる方法を聞くと、伯陽は次の様に答えました。
※国語 鄭語より
周の王室は衰微し戎は強くなるのは目に見えており近づいてはなりません。
成周(洛陽)の南に荊蛮があり申・呂・応・鄧・陳・蔡・隋・唐があり、成周の北には衛・燕・狄・鮮虞などがあり、西には虞・虢・晋などがあり、東には斉・魯・鄒などの国があります。
これらの国は周王の子や外戚の国でもありません。
彼らは蛮族と言ってもよく、この間に入り込む事は出来ないでしょう。
そうなると、済・洛・河・潁の間の地に行くしかありません。
その地方では虢(東虢)、鄶が大国になりますが、虢叔や鄶仲は地勢や険阻さを頼みとし驕慢で貪欲です。
貴方(鄭の桓公)が王室の多難を理由とし家族や財産を預ければ、必ずや引き受けてくれましょう。
仮に周が乱れて衰えれば、虢叔や鄶仲は貴方の家族や財産を全て自分の物としてしまうのは目に見えています。
その時に、貴方は正義を理由に成周の兵を率いて東虢と鄶を攻め滅ぼしてしまうのがよいでしょう。
東虢と鄶を滅ぼせば、周辺の八国は小国であり全て貴方のものになります。
華国を前とし、洛水が右にあり、黄河を後方とし、済水を左とし山々の祭主として国家を治めれば、少しは強固となる事が出来ます。
伯陽は鄭の桓公に東虢と鄶に民を預け、周王室が混乱した時には、成周の兵を率いて東虢と鄶を討つ仰天プランを進言した事になります。
鄭は王畿に領土を持つ邦君でしたが、周王室の危機に中原に諸侯としての国を誕生させる大胆な策だったと言えるでしょう。
伯陽の予言
鄭の桓公は「成周の南に方に行くのはどうか」と訪ねると、伯陽は難色を示しました。
伯陽は南方には楚があり後継者争いを制した熊徇は聡明協和な熊徇の子孫が治めており、重黎は帝嚳に仕え祝融と名付けられ大功があったと伝えています。
伯陽は楚が強大になれば、鄭を圧迫すると考え反対したわけです。
鄭の桓公は「西に拠るのはどうだろうか」と訪ねると伯陽は「西の民は利を貪るのが好きで、長続きはしない」と告げます。
鄭の桓公が「周が衰えたら勃興するのは、どの国になるか」と問うと、斉・秦・晋・楚が強大になると伝えました。
斉の先祖に伯夷がおり、秦の先祖も舜を補佐し天下に功労があり、周の武王が殷の紂王を討伐した後に、周の成王は叔虞を唐(晋)に封じていると告げ、天下に功労があった者の徳により、周が衰えれば活発になると述べました。
鄭の桓公は伯陽の進言に従い行動し、東虢や鄶に民や財産や家族を預けました。
鄭の首脳部は伯陽の進言を忠実に守り、周の幽王が犬戎に殺されたのを利用し、中原の地に鄭の国を打ち立てる事になります。
伯陽の予言は的中し、斉、秦、晋、楚の国が強国への道を進みました。
春秋戦国時代の春秋五覇は晋が中心ではありますが、斉の桓公、秦の穆公、楚の荘王なども春秋時代の有力な君主となっています。
さらに、周の幽王が皇后と太子(周の平王)を廃し、褒姒を皇后にしようとすると、伯陽は「周は滅びるだろう」と予言しました。
周の幽王は後に申公らと対立し犬戎にも攻められ西周王朝は滅亡しますが、周の東遷があり、周王朝は洛陽に移りますが、時代は乱世の時代である春秋戦国時代に突入する事になります。
尚、伯陽の最後は不明であり、どの様に亡くなったのかも記録がなくイマイチ分かりません。
歴史作家の宮城谷昌光氏の小説では周の幽王が亡くなったのを見届けてから、伯陽も命を落とした事になっています。