室町時代

六角氏頼は六角氏の礎を築く

2025年2月9日

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宮下悠史

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名前六角氏頼
別名崇永(法名)
生没年1326ー1370
時代南北朝時代
一族父:六角時信 母:長井時千の娘 妻:佐々木道誉の娘
兄弟:佐々木直綱、山内定詮、光綱 子:義信、満高
年表1336年 観音寺城が落城
1351年 高野山へ出家し引退
1353年 近江守護に復帰
1365年 京極高詮を猶子とする
コメント問題行動がありながらも六角氏の礎を築いた

六角氏頼は佐々木一門の惣領家に生まれた人物であり、南北朝時代に活躍しました。

ただし、観応の擾乱では足利尊氏直義のどちらに味方すればいいのか決める事が出来なかったのか、高野山へ出家しています。

六角氏頼が高野山に向かった後は、山内定詮が近江守護代理となりました。

観応の擾乱が終わると六角氏頼は近江に戻り近江守護になっています。

六角氏は延暦寺と度々トラブルを起こしていますが、六角氏頼の代でも何度かトラブルになりました。

さらに、幕府が認めていないのに、半済を行うなどトラブルも多い人物だったわけです。

それでも、六角氏頼は六角氏を守り抜き次代に繋げた君主であり、高い対応力を持っていたとも考えられています。

尚、六角氏頼の動画を作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

六角氏頼の幼少期

六角氏頼は1326年に六角時信の嫡子として誕生した事が分かっています。

六角氏頼は鎌倉幕府の最末期に生まれ、幼少の頃に鎌倉幕府は滅亡しました。

父親の六角時信は鎌倉幕府が滅亡する直前まで幕府方であり、建武政権で印象を悪くしたためか、その後の活動が不な部分が多いです。

六角氏頼の名は足利尊氏から一字拝領したと考えるのが妥当でしょう。

ただし、建武政権では雑訴決断所に名前を連ねたりもしています。

足利尊氏が建武政権から離脱し新田義貞を破り京都に軍を進めると、後醍醐天皇は奥州から北畠顕家を上洛させました。

この時に近江の観音寺城には、幼少の六角氏頼が籠城していましたが、北畠顕家配下の大舘幸氏により陥落しています。

六角氏頼は幼少の身でありながら、戦いの怖さを知ったはずです。

青野原の戦い

1336年に後醍醐天皇が吉野で南朝を開き南北朝時代が始まりますが、六角氏は足利氏が推戴する北朝に与しました。

南北朝時代の初期には六角氏頼は幼少であり、馬淵氏や目賀田氏、伊庭氏などの家臣団が中心となり活動しています。

1338年に後醍醐天皇の要請により、北畠顕家が上洛軍を興し、幕府軍との間で青野原の戦いが勃発しています。

太平記では一門の佐々木道誉と共に六角氏頼も出陣した事になっていますが、年齢的に考えて六角氏頼はまだまだ子供であり、六角軍は家臣が率いたのではないかと考えらえています。

幼少の頃より六角氏頼は戦乱続きの中にいた事になるでしょう。

六角氏の当主となる

六角氏頼は1347年頃に当主として活動が見られる様になります。

六角氏頼が六角氏第四代の当主となっていたのでしょう。

この時に六角氏頼は河内国東条の南朝方を征伐する為に、朽木経氏に出陣の依頼をしました。

六角氏頼はこの頃から「大夫判官」を名乗る様になり、近江守護となり六角氏の当主として地盤を固めていく事になります。

土岐周済の乱

観応元年(1350年)に高師直の御所巻により、足利直義が失脚する事件が起きました。

鎌倉にいた足利義詮が上洛し京都で政務を行い、足利基氏が鎌倉に下向する事になります。

こうした中で土岐周済が反旗を翻しました。

土岐周済は土岐頼遠の弟だともされています。

美濃で蜂起した土岐周済の軍は近江に向かいますが、足利義詮、高師直、佐々木道誉らによって鎮圧されました。

土岐周済は降服し、六角氏頼に預けられる事になります。

祇園執行日記によると、六角氏頼は土岐周済を六波羅地蔵堂焼野で処刑したと伝わっています。

足利直義の挙兵

足利尊氏高師直は九州の足利直冬の征伐に向かいますが、突如として足利直義が大和で挙兵する事になります。

南朝に降伏した直義に味方する者が続出し、近江でも甲賀郡の高山、大原らが挙兵し、上野直勝が河内国より近江に入り、油日城麓の善応寺で挙兵しました。

六角氏頼は尊氏方として戦う事になります。

三上山・野洲河原の戦いで六角氏頼の弟の内定詮は直義方に敗れ、伊庭六郎左衛門尉の軍勢も敗退し、瀬田橋が焼かれるなど不利な立場でした。

しかし、六角氏頼が守山の戦いで京極軍の援軍を得て勝利を収め、数十の首を手柄として上洛しています。

ただし、観応の擾乱の前半部は圧倒的に足利直義が有利であり、六角氏頼も足利直義に降り本領を安堵されました。

六角氏と延暦寺

観応2年(1351年)5月に延暦寺の政所集会で六角氏頼の事が問題視されています。

六角氏頼は延暦寺の関係者に暴行を加え公人を緊縛するという狼藉を働いていたわけです。

さらに、延暦寺に支払わなければならない聖共米を四年間に渡り、支払わないなどの問題行動を指摘されました。

延暦寺の政所集会では六角氏頼を島流しにし、佐々木荘を延暦寺の一円領にする様に朝廷や幕府に訴えるべきだと貫主(住職)に申し入れたわけです。

佐々木荘は佐々木一族の名の発祥地でもあり、六角氏の本拠地となっていたわけです。

延暦寺と六角氏は鎌倉時代から権益を巡って争っており、徐々に六角氏が延暦寺の権益が侵害されて行くのが分かる内容となっています。

延暦寺は朝廷と幕府に六角氏頼の暴挙を訴えますが、幕府と朝廷は共に「裁判をするのは難しい」としました。

朝廷と幕府の内容を聞いた延暦寺の衆徒たちは、客人社の神輿を山上に上げ、もっと強硬な態度で要求するように住職に求めています。

六角氏頼の出家

1351年6月に六角氏頼は突如として出家し高野山に入る事になります。

六角氏頼が高野山に入った理由としては、足利尊氏と直義の不和によるものだとされています。

高野山に入った六角氏頼は法名として崇永を名乗りました。

六角氏頼が高野山に行ってしまった事で、嫡男の千手(六角義信)が家督を継ぎ近江守護になっています。

六角義信が第五代六角氏の当主となりました。

しかし、六角義信はまだ政務を行える様な年齢ではなく、弟の山内定詮が政務をみました。

山内定詮は六角軍を率いても戦っており、観応の擾乱で兄の不在を補ったと言えるでしょう。

第六代当主・六角氏頼

六角氏頼は観応の擾乱が終わると、近江守護に復帰する事になります。

これにより第二次六角氏頼政権が近江に誕生しました。

室町幕府の方でも命令を六角氏頼に出しており、六角氏頼を守護として認めていた事が分かるはずです。

1353年になると足利直冬が京都奪還の為に動いた事から、足利尊氏は後光厳天皇を奉じて近江の武佐寺に逃れてきました。

六角氏頼は近江の行宮へ不参の者達の名簿を作り、料所にしたいと告げています。

六角氏頼は京都の近郊での戦いに参加し、神南山の戦いでは家臣の馬淵新左衛門が戦死しています。

さらに、田上中荘年貢一作半分を兵粮料所として、澤新蔵人に与えました。

近江では激しい戦いが繰り広げられており、資金繰りに苦しく兵粮料所の設置は必須だったのでしょう。

甲賀出兵

1356年に六角氏頼は甲賀郡に出陣しました。

この時に六角氏頼は半済と称して、梶井門跡から徴収し軍費としています。

梶井門跡側としては押領であり、幕府に訴え出る事になります。

足利義詮が対応し「甲賀出兵に半済令は出してはおらぬ」とし、押領をやめる様に六角氏頼に通達しました。

六角氏頼は違乱は知らなかったとし、さらに問題が起きる様であれば対処すると答えています。

しかし、近江での違乱は収まらず、翌年である1357年に菅浦の雑掌が守護の濫妨、狼藉を幕府に訴えています。

甲賀郡の混乱

1357年に六角氏頼は甲賀郡の山中頼俊、道俊を味方にする事に成功しました。

六角氏頼は山中氏の所領を安堵し、新たに別の地頭職も預け自陣営に定着させようと考えました。

しかし、山中頼俊の知行地である柏木御厨内山検談所への伴一族の違乱が問題となります。

六角氏としては山中頼俊が敵対勢力にならない様に気を遣い、伴一族の行動を問題視しました。

伴一族は上洛して弁明すると述べた事で、京都に上洛する様に述べますが、伴一族は上洛する事が無かったわけです。

ここで六角氏頼は再度期限を定めて伴一族に上洛を促しています。

こうした事から六角氏の法廷が京都にあった事が分かるわけです。

それと同時に甲賀郡の混乱が武士たちの所領争いにもなっていた事は明白でしょう。

尚、1357年は甲賀郡の儀俄及び高山を降伏させた年でもありました。

儀俄・高山は降服しても再び背くとする噂も流れており、六角氏頼は京都にいた儀俄・高山を1358年に誅殺しています。

愚管記によると、この事件は幕府が六角氏頼に命じて行われたとされています。

近江の戦い

仁木義長が細川清氏との政争に敗れて、幕府内で居場所を失い本国の伊勢に戻る事件が起きました。

こうした中で延文五年(1360年)に石塔頼房と仁木三郎なる人物が伊賀と伊勢の軍を率いて近江を攻撃しました。

六角氏頼は石塔頼房と仁木三郎の軍を市原城で破っています。

さらに、翌年である1361年には足利義詮の命令で甲賀郡の南朝方を攻撃しました。

延暦寺とのいざこざ

六角氏は鎌倉時代より度々延暦寺とトラブルになっています。

1358年には延暦寺は六角氏による山門領の押領と、日吉社の僧の殺害を訴えています。

1362年には六角氏頼による放火及び狼藉、京極氏の黒田高満による殺害を訴え、洛中にまで神輿がやってくると言われた程です。

室町幕府の方では延暦寺の訴えに対し、裁許しない方針でしたが、足利義詮、佐々木道誉、六角氏頼らに夢想があり、恐怖した事で土地を寄進したとする記録があります。

この事件は室町幕府が延暦寺を軽く見ている話にもなっていますが、それと同時に神仏に対する畏れの感情も抱いていたと見る事が出来るはずです。

六角氏の後継者問題

六角氏では過去に六角氏頼が出家した事で、六角義信が当主となっていました。

観応の擾乱が終わると、六角氏頼が当主に復帰しましたが、六角氏頼が亡くなれば六角義信が再び当主になる予定でした。

しかし、1365年に六角義信は没しています。

六角氏頼には後継者にする様な男児がいなくなり、京極高秀の子である京極高詮を猶子に迎え入れています。

京極氏は同じ佐々木一門であり、京極家には佐々木道誉がおり、普段は独自で行動していましたが、家督相続の事になると協調しているわけです。

一族としての六角氏と京極氏は結びつきが強かったとみる事が出来ます。

越前遠征

足利義詮の時代に幕府内で斯波高経と佐々木道誉・石橋和義らが対立する事になります。

1366年に足利義詮は斯波高経の討伐を命じました。

斯波高経は京都の自邸を焼き斯波義将及び、斯波義種・義高などと共に越前に向かいました。

足利義詮は山名氏冬と六角氏頼を中心とする軍を越前に派遣しています。

斯波高経は杣山城に籠り、子の斯波義将は栗屋城に籠りました。

この戦いは、そもそも斯波高経と佐々木道誉が元にあり、六角氏頼は佐々木道誉に積極的に味方した結果だと考えられています。

六角氏頼は佐々木一族の惣領として、佐々木道誉に味方したのでしょう。

神輿の入洛

応安元年(1368年)に延暦寺は「続正法論」によって天台宗を非難した禅宗を非難しました。

延暦寺は祖禅と春屋妙葩の流罪を求めています。

この事件に対して朝廷では裁許すべしとなりますが、幕府では意見が割れました。

六角氏頼、山名時氏、赤松則祐は裁許すべしとしますが、細川頼之、土岐頼康らは裁許する必要はないとしています。

これにより神輿の入洛が決定的となり、京都には不穏な空気が流れ赤松氏、細川氏、六角氏、土岐氏、山名氏らが警護につきました。

さらに、内裏には逆茂木を設置しますが、衆徒らは逆茂木を破壊し、唐門前で戦いとなります。

この戦いで「佐々木入道猶子」の「四郎」が負傷した話があり、この四郎こそが六角氏頼の猶子となった六角(京極)高詮だと考えられています。

六角氏では時期当主になる人物に「四郎」を名乗っており、京極高詮を指す事は確実でしょう。

六角満高の誕生

1369年になると六角氏頼に子が出来たわけです。

これが後の六角満高であり、猶子となっていた六角高詮の存在が宙に浮く事になります。

六角氏では六角満高が15歳になるまで政務を補佐する事になりますが、六角高詮は永和三年(1377年)に非法を犯したとして地位を剥奪されています。

早い時期に六角満高は後継者候補から外れたと言えそうです。

六角氏頼の最後

応安三年(1370年)に六角氏頼は京都の邸宅にて、その生涯を終えました。

三条公忠は六角氏頼を次の様に評しました。

※南北朝武将列伝北朝編(戎光祥出版)272頁

当時武家において卿か神仏を敬い、道理を知る者なり

三条公忠は六角氏頼の死を悼んだわけです。

六角氏頼は肝心な時に出家したり、延暦寺とトラブル、勝手に半済を行ってしまったりと問題児に思うかも知れません。

しかし、六角氏頼は近江国内で多くの寺院を整備したりしており、評価されたのでしょう。

同じく佐々木一門の佐々木道誉に比べると派手な活躍が無い様に思うかも知れませんが、南北朝時代を生き抜いた武将だと言えそうです。

六角氏は戦国時代まで続きますが、六角氏頼が礎を築いたと言えるでしょう。

六角氏頼の動画

六角氏頼のゆっくり解説動画となっています。

この記事及び動画は南北朝武将列伝(戎光祥出版)をベースに作成してあります。

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