劉琰(りゅうえん)は字が威碩であり、劉備が豫州刺史だった時代に仕える事になります。
劉琰は劉備の賓客となり、益州まで行き劉備死後は、劉禅にも仕えています。
劉琰は知名度は低いかも知れませんが、将軍の中で3番目に位が高いとされている車騎将軍にもなった実績がある程です。
ただし、魏延と不和になったり、諸葛亮に反省の文を送っているなど、評判は良くはなかった事でしょう。
最後は自分の妻である胡氏に暴力を行った事で、処刑された人物でもあります。
尚、陳寿が書いた正史三国志では「劉彭廖李劉魏楊伝」に掲載され、劉封、彭羕、廖立、李厳、劉琰、魏延、楊儀と同じ伝に入っています。
因みに、陳寿は評の部分では劉封、彭羕、廖立、李厳、劉琰、魏延、楊儀らを「禍を招き罪を得たのは身から出た錆」と酷評している状態です。
多くの方が想像する様に、劉琰は問題児であり、史実の三国志においても問題を起こした人々の伝に入る事なったわけです。
尚、劉彭廖李劉魏楊伝の人物には、劉封や魏延、李厳、楊儀など性格に問題はあるが、能力が高いと思われる人物は含まれています。
しかし、劉琰に関しては、能力が高い様には思えませんでした。
劉備に仕える
正史三国志によれば劉琰は魯の出身であり、劉備が豫洲刺史だった時代に仕えた話があります。
西暦194年に劉備は陶謙の元にいて、陶謙は劉備を豫州刺史に推薦し認められています。
つまり、劉琰が劉備に仕えたのは西暦194年頃になるはずです。
劉備は劉琰を召し出して従事としたが、劉備と同姓であった事や談論を好んだ事で、信愛され厚遇を受けた話があります。
これを見ると劉備は、劉琰に従事の役職を与えた事になっていますが、正史三国志を見ると劉琰を賓客とした記録もあります。
どちらが正しいのかは不明であり、劉琰は弁が立った事から交渉事などを行ったのではないか?とも考えられています。
孫乾や麋竺との違い
劉備配下で交渉事などの担当と言えば、孫乾、麋竺、顧雍などを思い浮かべる人も多いと思います。
孫乾、麋竺、顧雍は従事中郎などの役職を与えられています。
それを考えると、劉琰が賓客であったのであれば、孫乾、麋竺、顧雍などに比べると重用されていなかったのかも知れません。
劉備は劉琰を馬謖と同様に、弁が立つが重用する程の人物に思う事が出来ず、賓客に留めておいた可能性もある様に思います。
ただし、劉備が赤壁の戦い後に、荊州を領有し、張魯討伐を名目に劉璋から益州を奪うと、劉琰も役職を与えられる事になります。
車騎将軍となる
劉備は益州を平定すると、劉琰を固陵太守に任命します。
ここにおいて、劉琰は正式に役職を賜わった事は間違いないでしょう。
劉備も豫州にいた頃から、付き従ってくれた劉琰に報いたはずです。
しかし、劉備の勢力は樊城の戦いで関羽が敗れ、荊州を呂蒙や陸遜の策で奪われてしまいます。
劉備は大軍を指揮し、呉に攻め込み夷陵の戦いが起きますが、孫権が任命した大都督である陸遜に敗れ、白帝城で崩御しました。
劉備が亡くなると、劉禅が即位し、劉琰は都郷侯に封じられ、席次は李厳の次だったとされています。
劉琰は衛尉・中軍師・後将軍と昇進し、車騎将軍にもなったとされています。
車騎将軍と言うのは、数ある将軍位の中でもトップ3に入る役職であり、劉備が皇帝になった時には、張飛が車騎将軍に任ぜられた程です。
さらに、孫権との外交で活躍し、第一次北伐では趙雲と共に陽動部隊となり、見事な撤退戦を演じた鄧芝も車騎将軍になった記述があります。
蜀の終盤を支えた廖化や張翼などは、「右車騎将軍」「左車騎将軍」の位を与えられています。
ただし、車騎将軍は名誉職の様な意味合いもあるとされ、魏から降った夏侯覇や夷陵の戦いで魏に降伏した、黄権なども役職を歴任しています。
それでも、車騎将軍と言うのは、かなりの高位であり元帥クラスの役職である事は間違いありません。
その車騎将軍に劉琰が任ぜられたわけです。
尚、劉琰は車騎将軍に就任する前は、後将軍に任ぜられており、後将軍は劉備が漢中王に即位した時に、黄忠が就任した役職でもあります。
これを見ても、賓客に過ぎなかった劉琰が、如何に出世したか分かります。
ただし、劉琰が高位の登ると言うのは、多くの方が指摘している様に蜀漢の人材不足の表れなのかも知れません。
位だけが高い男
劉琰ですが、正史三国志を見る限りでは、位が高いだけであり功績は少ない様です。
正史三国志には、劉琰は部下は千人ほどいたが、国政に参与しなかったとあります。
劉琰は諸葛亮に随行して、批評や建議をするだけだったとあり、有能さは微塵も感じません。
さらに、劉琰は贅沢を好み車馬、衣服、飲食は奢侈だったとあります。
劉琰の侍婢数十人は、歌が上手く「魯霊光殿の賦」を暗唱させていた話があります。
芸術肌にも感じますが、贅沢を好んだ人物とも言えるでしょう。
反省文を書く
劉琰は奢侈だったわけですが、紀元前232年になると、前軍師の魏延と不仲になってしまいます。
魏延としてみれば、猛将として謳われた人物であり、劉備に昔から仕えていたからと言って、手柄も無く高位にいる劉琰が気に食わなかったのかも知れません。
劉琰は魏延に対して、出まかせの言葉を吐いてしまい、諸葛亮に詰問される事になります。
劉琰は自分の身が危ういとしると、諸葛亮に手紙を送っています。
「私は内容のない男で、素行も悪く酒乱癖もあり、先帝(劉備)の時代から物議を醸し、危うく破滅する所でした。
明公(諸葛亮)が、私の国家を思う気持ちだけを汲んで、私の不甲斐なさをお許しになり、俸禄・官位を保つ事が出来、今日に至ったのであります。
先日は泥酔した時に、誤った事を申しましたが、命を取る事はしませんでした。
私は我が身を悔い、過失を責め命を捧げますが、神明に誓ったとしても、ご命令を用いる場所がなければ、どこに行ってよいか分かりません。」
劉琰の手紙を見る限りでは、劉琰が酒癖が悪く問題児だった事が分かります。
劉琰が謙遜した可能性もありますが、自分が無能な男だとも言っているわけです。
しかし、諸葛亮は劉琰の手紙を受け取ると、劉琰を成都に帰還させ、官位は元通りにしたとあります。
諸葛亮は234年に五丈原の戦いで亡くなっており、劉琰が問題を起こした232年の時点では、北伐を何とか達成したいと考え、劉琰を罰しなかった可能性もあります。
諸葛亮が劉琰を罰し、劉琰が逆恨みし、謀反でも起こしたら厄介な事になると感じたのかも知れません。
妻の胡氏に暴力
劉琰は諸葛亮により成都に帰らされてからは、生きる希望を失くしたのか、ぼんやりと過ごしていた話があります。
劉琰の妻の胡氏は美人であり、胡氏は劉禅の大后(穆皇后呉氏)に年賀の為、参内した話があります。
大后は胡氏の事が気に入ったのか、一カ月ほど留めて置いた話があります。
劉琰は胡氏が帰って来ない事で、劉禅と私通をしたのではないかと疑い、吏卒を呼び胡氏を鞭打たせ、草履で顔を殴った後に離縁してしまいます。
胡氏も劉琰に屈辱的な暴力をされ、黙っているわけでもなく、胡氏が劉琰を告訴し、劉琰は投獄される事になったわけです。
担当官吏は劉琰の取り調べを行い、次の様な事を述べています。
「吏卒は妻を鞭打つのが仕事ではないし、顔は草履を受ける地面ではない」
劉琰は妻への暴力が原因で、市場で処刑される事になったわけです。
現代で言えば、劉琰は妻にDVを行った事になるでしょう。
穆皇后呉氏は胡氏と仲がよかったはずであり、劉琰の死は穆皇后呉氏と胡氏の意向が含まれていたのかも知れません。
尚、劉琰が処刑された事が原因で、大官の妻や母が朝賀に参内する風習はなくなったとあります。
劉琰の事件を蜀では、大きく見たのでしょう。
劉琰の評価
劉琰ですが、後に皇帝になる劉備に早い時期から仕えたのは、勝ち馬に乗ったとも言えそうです。
しかし、功績が無く素行も悪かった事で、残念な最後を迎えてしまった様に思いました。
それでも、劉備が豫洲にいた時代から仕えて、諸葛亮が亡くなる頃まで生きていた事を考えると、それなりに長生きをした様に思います。
先にも述べた様に、かつては張飛が就いた車騎将軍の位に劉琰がいるのは、蜀の深刻な人材不足だと考える事も出来ます。
尚、劉琰が何年に亡くなったのかは不明ですが、良い終わり方とはとても言えないでしょう。