
| 名前 | 管仲(かんちゅう) | 
| 本名 | 管夷吾 | 
| 生没年 | 生年不明ー紀元前645年 | 
| 時代 | 春秋戦国時代 | 
| 所属 | 斉(春秋) | 
| 主君 | 公子糾→斉の桓公 | 
| コメント | 名宰相として極めて評価が高い | 
管仲は春秋時代に斉の桓公の宰相になった人物です。
管仲は凡庸な君主とされる斉の桓公を覇者にまで引き上げており「史上最高峰の宰相」とも言われ、一部からは絶大なる評価をされました。
三国志の諸葛亮も管仲を楽毅と並べて、髙く評価した事でも有名です。
しかし、史記や春秋左氏伝の記述を見ても「管仲の実態が分かりにくい」「具体的に何をした人なのかよく分からない」という人が多いのではないでしょうか。
それでも、孔子、孟子、荀子、韓非子などの思想家は管仲について述べており、どの様に管仲を見ていたのか史記の記述と合わせて解説します。
最近では管仲が実在しなかった説も有力となっています。
実際に同時代の史料では管仲は登場しない問題があり、管仲が実在しなかった説や管仲に多くの説話が誕生した時代背景なども紹介します。
管仲と言えば「管子」が有名ですが、管子に関しても春秋の時代背景と合っておらず後世の創作だとする見解が強い状態です。
尚、管仲が亡くなる時に、斉の桓公に寵臣であった易牙、豎刁、開方を近づけない様に要求した事でも有名です。
管仲と公子糾
管仲は若い頃に鮑叔と知り合い親友となりました。
二人の関係は管鮑の交わりで書いています。
大人になると管仲は召忽と共に公子糾に仕え、鮑叔は小白に仕えました。
斉の襄公が亡くなると、先に国に戻った方が斉公になれる状態となります。
管仲は公子糾の為に弓矢で小白を狙いますが、小白は死んだふりをした事で難を逃れ先に斉に到着しました。
この小白が斉の桓公です。
公子糾や管仲は魯に戻る事になりますが、斉からの強い要望により公子糾は処刑され、管仲と召忽は斉に身柄を預けられる事になりました。
召忽は公子糾に殉じますが、管仲は捕えられ斉に送られる事になります。
この時に韓非子に逸話が残っており、綺烏の役人が管仲を丁重に持て成し、斉で重用された場合での見返りを求めますが、管仲は「有能な人材を用いる」とし役人の言葉を退けた話があります。
斉の桓公に仕える
鮑叔が「高傒よりも管仲の方が能力が上」と進言した事で、斉の桓公は管仲を宰相に任命し国政を任せたわけです。
管仲は囚人の身から一気に宰相に躍り出ました。
尚、管仲が主君である公子糾に殉ずる事をせず、敵であるはずの斉の桓公に仕えたのは「自分の富国強兵政策」を実行させてくれるのであれば、主君は誰でもよかったのではないか?とも考えられています。
後述しますが、管仲の態度を仁ではないと子路や子貢が考え、公子と問答を行った話も残っています。
覇者への道
管仲は斉の桓公に覇者になる様に進言しており、斉の桓公を驚かせています。
斉の桓公は覇者になろうとは思っておらず、管仲に「覇者になる方法ではなく、斉をよく治める方法」を聞きました。
しかし、管仲は「話にならない」と考えたのか席を立とうとし、驚いた斉の桓公は管仲を止めました。
斉の桓公は管仲に対し「覇者になれる様に努力する」と約束しています。
管仲は斉の桓公を君主として仰ぎ、斉の国を発展するべく行動を開始しました。
管仲の権限強化
管仲は宰相となりますが、莫大な財産があったわけでもありませんでした。
管仲は若い頃に貧しく鮑叔と商売をやっていた話もあり、財力は皆無でもあったのでしょう。
さらに言えば、斉の桓公の一言で突如として宰相になっており、自派閥も無く政治運営が困難な状況だったとも言えます。
管仲は斉の桓公に対し、上部の人間であっても命令出来る様に位を望むと、斉の桓公は「卿」にしました。
管仲や鮑叔は大夫だったと考えられていますが、最上位の「卿」にまで出世した事になります。
さらに、斉を改革する為に資金を要求すると、斉の桓公は一年の税収を好きな様に仕える様に権限を与えました。
斉の桓公は管仲を「仲父」としており、大臣達は管仲の命令を聞かないわけには行けない状態を創り出したわけです。
管仲の経済政策
管仲は国政改革に乗り出しました。
斉は東方の国であり海に面しており、海産物の交易により利益を挙げる事になります。
塩や鉄を国家の専売制とした事は、有名ではないでしょうか。
管仲の政策は国を富ませ兵を強くし、民衆と好悪の情を同じくしたとあります。
「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」の言葉は故事成語にもなっており有名でしょう。
管仲が命令を出せば水が高い所から低い所に流れる様に、民心を順応させました。
管仲の政策は行いやすく、大衆の望む者は与え、嫌うものは取り去ったとあります。
尚、史記の管仲の経済政策だと、具体的に何をしたのか分かりにくい部分があります。
国語の方が管仲の経済政策について詳しく書かれており後述致します。
災い転じて福となす
楚を討つ
史記には管仲が禍をチャンスに代えるのが巧みだったと書かれています。
「災い転じて福となす」を実践したのが、管仲だと史記は伝えています。
斉の桓公は夫人の蔡の少姫と船上で揉めて、少姫を実家に帰してしまいました。
しかし、蔡の君主は少姫を別で嫁がせてしまい怒った斉の桓公は、蔡を攻撃したわけです。
この時に管仲は蔡に近い南方の楚を討ち、楚が周に祭祀用の包茅を朝貢しない事を咎めました。
楚の成王は斉の威勢の前に敵対する事は考えずに、要求を呑んでいます。
大国である楚が斉に従ったわけであり、斉の桓公の名声は高まった事でしょう。
燕に土地を割譲
燕が山戎により危機的な状況にあり、斉に援軍を求めました。
斉の桓公は管仲や隰朋らと援軍に行き、山戎を退け孤竹国まで行った話があります。
管仲は燕の荘公に始祖である燕の召公奭の政を、復活させる様に要請しています。
斉の桓公の一行は斉へ帰還しますが、燕の荘公は国境を超えて見送りました。
ここで斉の桓公は「諸侯が送り合う時は、国境を出ないものである。儂は燕に尽くさねばならない」と述べると、燕の荘公が見送った地点を国境としました。
史記の斉太公世家を見ると、管仲の進言により行ったとは書かれてはいませんが、燕への計らいは管仲の進言と考える人も多いです。
柯会之盟
斉の桓公は魯との戦いで大勝し、柯の会盟により魯の土地を斉に割譲する事になりました。
斉の桓公と魯の荘公が会盟を行う直前に、曹沫が匕首を持ち斉の桓公を脅し、魯から得た土地を返還する様に要請しました。
斉の桓公は曹沫の言う事を聞かねば命がない状態となり、渋々承諾しています。
後に斉の桓公は魯との約束を反故にしようとしますが、管仲は「約束は約束」と斉の桓公を説得し、魯に土地を返還しました。
これを聞いた諸侯は斉の桓公に信義を感じ入り、従う様になったと言います。
尚、この事件があった柯会之盟は故事成語にもなっており意味は「信義により信頼を得る」ことです。
史記では管仲の方策として「取りたければ、まず与えよ」を実践した事になっています。
管仲の私財は斉の公室にも匹敵し、三帰や反坫まで所有しましたが、斉の人々は管仲を贅沢だとは咎めなかったと言います。
史記では斉は管仲の死後も政策を遵奉し、強国であったと伝えています。
出来過ぎた管仲の物語
史記などの管仲を見ていると「信義」を大事にしている事が分かります。
しかし、「話が出来過ぎている」と感じた人も多いのではないでしょうか。
話が美談としてまとめられ過ぎていると考えた人も多いはずです。
現在の所ですが、管仲の説話は春秋時代の末期に原形が出来ていたと考えられています。
そして、戦国時代に入り管仲に関する具体的な記述が出来上がりました。
管仲の思想とされた管子では、春秋時代の後期から前漢の時代に誕生したとする逸話もある程です。
孔子による管仲の評価
孔子と子路の管仲問答
子路と孔子の問答で次のものがあります。
子路「斉の桓公は公子糾を殺害し召忽は死にましたが、管仲は死にませんでした。管仲は仁ではないのでしょうか」
孔子「斉の桓公は何度も会盟を行ったが、武力の頼ったものではない。これは管仲の功績である。その仁に及ぶだろうか。その仁に及ぶだろうか」
さらに、弟子の子貢は孔子に次の様に述べた話があります。
子貢「管仲は仁者ではないのでしょうか。斉の桓公は公子糾を死に追いやっていますが、主君である公子糾が死んでも管仲は死にもせず、仇であるはずの斉の桓公を補佐しました」
孔子「管仲は斉の桓公を輔弼し、覇者に押し上げ天下を一つに正したのである。
民は今に至るまで管仲の恩恵を受けている。
管仲がいなかったら自分は「ざんばら髪」となり、襟を左前にしていたであろう。
つまらぬ夫婦が信義を立て、自ら溝の中で首を括って死に、これを知るものがいないのと同列にする事はできぬ」
孔子の弟子の子路と子貢は管仲の節義を問題視したわけですが、孔子は管仲は天下の人々を救ったとでも言いたかったのでしょう。
確かに、公子糾が亡くなった時に、管仲が召忽と共に自刃していれば、公子糾は「よき臣下をもった」と、その徳を天下の人々に讃えられた事でしょう。
しかし、管仲がいなければ、天下の人々は夷狄の餌食になったと考えたとみる事が出来ます。
楚の侵攻からも管仲は中原の諸侯を守っており、孔子は管仲の仁は大きいとしたのではないでしょうか。
管仲の器が小さい
論語の中で孔子は「管仲の器が小さい」とも述べています。
ある人が不思議がり「管仲が節倹だからですか」と尋ねると、孔子は「管仲は三つの姓の女性を娶り、職務ごとに人を置き掛け持ちはさせなかった。どうして倹約家だと言えるだろうか」と答えています。
そこである人は「管仲は礼を心得ていたのですか」と尋ねました。
すると、孔子は「国君は塀を立てて目隠しをする。管氏は陪臣でありながら、塀を立てて目隠しをした。
国君は国君同士で親しむ場合は、反坫を設けるが、管仲は陪臣であるにも関わらず反坫を設けた。
管仲が礼を知っていたのであれば、誰が礼を知らないのと言うのだ」と応えています。
管仲は国君並みの事をしているのであり、身分不相応の事をしていると批判した事になるでしょう。
孔子は管仲に礼を知らないと言いたかったのかも知れません。
管仲は伯氏の三百戸を奪った。これにより、伯氏は粗末な食事をする羽目になったが、管仲に対し死ぬまで恨み言を言わなかった。
管仲の個人的な性格には問題があったと孔子は考えたのかも知れませんが、伯氏は貧しくなっても、管仲の政治に対し批判する余地はなかったと考えられます。
孔子は管仲の政治を高く評価した事になるでしょう。
管仲と孟子
管仲と孟子の比較
公孫丑が孟子に斉で政治を行ったら、管仲や晏嬰のような功業を挙げる事ができるのかと質問しました。
孟子は次の様に応えています。
孟子「管仲は斉の桓公から絶大なる信頼を受け、あれほど長く斉の政治を行って来たのに、王道ではなく、つまらぬ覇道を行った。
其方はなぜ、管仲と私を一緒にするのだ」
孟子は管仲と同列にされる事を嫌がりました。
公孫丑は「管仲は斉の桓公を覇者とし、晏嬰は斉の景公を名を天下に轟かせましたが、管仲や晏嬰でも小さいと申されますか」と尋ねています。
孟子は次の様に応えました。
孟子は「今の斉の国力があれば、覇道ではなく王道を行う事も手のひらを返すように容易な事である」
孟子は管仲が斉の桓公を覇者としたのに不満であり、徳の力で王道を行わせるべきだったと述べた事になるでしょう。
管仲を下に見た孟子
斉王が孟子を呼びつけようとしました。
孟子は腹を立て「殷の湯王は伊尹を呼びつけにはしませんでした。
斉の桓公も管仲を呼びつけてはいません。
管仲でさえも呼びつけられないのに、管仲を下に見て相手にしない私には言うまでもないでしょう」
孟子が如何に管仲を低く見ていたのかが分かる話でもあります。
孟子は管仲が斉の桓公を天下の覇者にした事を全く評価していませんでした。
孟子は「春秋五覇は夏、殷、周の三王の罪人であり、今の諸侯は五覇の罪人であり、今の大夫は諸侯の罪人である」とも述べています。
孟子は徳による王道政治を理想としており、力による覇道政治を嫌ったと言えるでしょう。
孟子は管仲だけを嫌っているように見えるかも知れませんが、晋の文公も含めて春秋五覇を低く評価しています。
管仲と荀子
君主と宰相
荀子は、管仲に対して次の様に述べています。
孟子「君主は中正な朝廷を作り出し、全ての政務を統率させる宰相が仁徳の人であれば、その身は安全で、国はよく治まるものである。
そして、功績は大きく名声は高く王者となり、たとえ王者になれなくても覇者になれる。
それ故に、殷の湯王は伊尹を用い、周の文王は呂尚を用い、周の武王は召公を用い、周の成王は周公旦を用いたのである。
斉の桓公は天下の王となれなくても、覇者になった。
斉の桓公の私生活は贅沢であり、天下の人々も身の収まった人だとは見られなかったが、天下を一つとし、春秋五覇の筆頭となった。
これは斉の桓公が管仲に政治を任せたからである」
荀子は王者となった殷の湯王、周の文王、周の武王よりも、覇者である斉の桓公を下に見ている事が分かります。
それでも、荀子は管仲に政治を任せた斉の桓公を高く評価したと言えるでしょう。
尚、斉の桓公は殷の湯王らに及ばないとしましたが、管仲の能力は伊尹、呂尚、召公奭、周公旦に匹敵すると考えたのではないでしょうか。
管仲が斉の桓公を王者に出来なかった理由
荀子では管仲が斉の桓公を王者に出来なかった理由を、次の様に述べています。
斉の管仲は政治を行った人である。
しかし、礼を修めて民を教化する事は出来なかった。
礼を修める者は王者となり、政治を行う者は強い覇者となり、民心を得る者は安泰である。
重税を行った国は滅亡する。
孔子も管仲の礼を問題視していますが、荀子も管仲が斉の桓公を王者に礼を修めさせなかったからだとしたわけです。
韓非子と管仲
韓非子の斉の桓公と管仲に関わる逸話が登場します。
晋からの使者がやってきて、担当の者が「どの様に接待すればよいのか」と斉の桓公に訪ねました。
斉の桓公は「仲父(管仲)に聞け」と答え、何度聞いても「仲父に聞け」としか言わなかったわけです。
このやり取りを見ていた者がおり「君主という者は楽でいいですな。仲父と言っていればいいだけですから」と斉の桓公に告げました。
しかし、斉の桓公は気にもせず「儂は管仲を得るのに非常に苦労したのである。管仲を得たのだから楽をさせて貰わねば溜まらぬ」と応えたと言います。
韓非子は堯や舜の様な聖人が現れる事は滅多になく、天下が統一されれば凡庸な君主であっても、法と制度が整備され宰相に人を得れば、世の中は上手くいくとしました。
韓非子は宰相に人を得る事の重要さを解いてもいるわけです。
ただし、韓非子は宰相にも法を適用させなければ、君主は地位を宰相に奪われるとも述べています。
尚、斉の桓公が管仲を仲父と呼んだ事は有名ですが、歴史を見ると始皇帝は呂不韋を「仲父」と呼び、項羽は范増を「仲父」と呼びました。
管仲は死ぬまで斉の桓公に重用された事になっていますが、同じく仲父と呼ばれた呂不韋と范増は主君との軋轢もあり悲惨な最後を迎えています。
それを考えれば、安易に仲父と呼ばれる必要はないのかも知れません。
管仲と春秋左氏伝
春秋時代と言えば、春秋左氏伝と考える人も多いのではないでしょうか。
春秋左氏伝から斉の桓公や管仲の実績を知ろうと考えた人も少なくないように思います。
しかし、春秋左氏伝を見ると、管仲の名は登場しますが、簡略な記述しかなく詳細は描かれていません。
残念に思うかも知れませんが、春秋左氏伝には、管鮑の交わりですら記載されていない状態です。
同様に斉の桓公の輝かしい実績にも殆ど触れられておらず、詳細がよく分かりません。
反対に晋の文公に関しては、かなり詳細に書かれています。
後述しますが、春秋左氏伝が成立した時代には、管仲の逸話はまだ作られていなかったとも考えられています。
国語の管仲の経済政策
国語には管仲の経済政策が詳しく書かれています。
斉の桓公は斉の襄王が後宮を拡大し、国力が低下した事を憂いていました。
管仲は斉の桓公に対し「道徳のある者を起用し、法令を定め、恩賞により善行を促し、刑罰で悪を正す様に」と述べています。
道徳、法令、恩賞、刑罰の徹底などは、古今東西、どこの国でも言われている様な事であり、とりわけ珍しいわけではありません。
しかし、管仲は次の様にも述べています。
管仲「聖王が天下を治める時は天下を三つにわけ、郊外の野を五つに分けて民を定住させています。
民が生活する場所、死者を葬る場所を定め、慎重に六柄(生・殺・貧・富・貴・賎)を用いました。
四民(士農工商)を雑居させてはなりません。
士農工商を雑居すれば、互いに干渉し様々な物議を催し、職を変える者が出て来るのです。
昔の聖王は士を静寂な場所に住ませ、工を官府に住ませ、商を市井に住ませ、農を田野に住ませました。
管仲が天下を三つに分け郊野を5つに分ける様に進言していますが、これを「参国伍鄙の制」とも呼ばれています。
士農工商を雑居しない様に管仲は分けた事になっており、国語だと管仲は全国を21郷に分けて工商を6郷、士郷(士人と農民)を15郷にしたとあります。
工商の六郷からは兵の徴兵がなく、士郷から徴兵する事になりました。
斉の君主と国氏、高氏の斉の上卿が一師(五郷)を指揮する事になります。
国政は三系統に分類し三官を設置し、田師、器師、市師で農・工・商を監督させる事にしました。
官員には三宰(三卿)を置き、三族に工業を監督させ、三郷に商業を監督させ、三虞に川沢の監督をさせ、三衡を設置し山林を監督させたと言います。
国語の管仲の政策では士農工商を分けて住まわせたとありますが、春秋時代では既に士農工商が雑居しておらず、時代背景に合わないとする指摘があります。
国語の記述は、春秋時代の情勢を現わしておらず、管仲の名を借りた政策だと考えられています。
これらの政策は戦国時代に行われた改革を管仲の名で反映させただけであり、春秋時代に管仲が実践した政策ではないのでしょう。
管仲と覇者体制の誤り
管仲の話を聞いてみると「現実離れしている」「実際に何をした人なのか分からない」と言った意見が多くなる様に感じています。
史記の管仲の記述では、具体的に何をしたのか分からず、管氏などの記述を見ても、春秋時代の時代背景に合致せず「益々実態が掴みにくくなった」と思っても不思議ではないでしょう。
管仲の逸話に関しては戦国時代以降に作られたとされていますが、戦国時代になると既に春秋時代の覇者体制がどの様なものか忘れさられていたと考えられています。
戦国時代は超大国の戦国七雄の時代であり、中小の諸侯は淘汰されており、斉、晋、楚、秦などの大諸侯が中小の諸侯を守ると言う覇者体制自体が忘れさられていたわけです。
春秋時代と言えば「尊王攘夷」が掲げられていましたが、既に楚や白狄も中原の文化を受け入れていました。
覇者体制は本来は大諸侯と中小諸侯による「持ちつ持たれつ」による緩やかな体制でしたが、武力のよる支配の覇道に代わり、徳による王道の対立軸として捉えられる様になります。
斉の桓公が覇道の君主であり、覇道を支えた賢臣として管仲の名が挙がったわけです。
管仲の説話は時代背景を間違えて出来てしまったとも言えるでしょう。
管仲説話の誕生
管仲の説話は春秋時代の末期には原形が誕生したと考えられています。
先にも述べた様に、孔子も論語の中で管仲を子路や子貢との問答が記録されました。
管仲の説話の大半が戦国時代の斉で作られた事が分かっています。
管仲が覇者であった時代は、斉にとっては輝かしい時代であり、説話の対象として斉の桓公が選ばれました。
斉の桓公の時代は斉が強く、斉を讃える狙いもあったわけです。
斉の国を讃えるだけであれば斉の桓公を聖人君子として描けばよいのですが、物語を作ったのが稷下の学士でした。
稷下の学士らは政治に関して様々な議論を行った事でも有名です。
それと同時に稷下の学士の目的は、君主に登用され大臣になるなど出世する事でもありました。
しかし、斉の桓公が「卓越した君主でスーパーマン」であれば、稷下の学士らは不要という事になります。
そこで、凡庸な君主である斉の桓公を、低い身分の出身である管仲が補佐したという物語が誕生しました。
管仲の説話は斉で大流行し、次々に新たなる物語が誕生していきます。
その為、管氏では儒家、法家、道家など諸子百家の様々な思想が入り込む事になります。
管仲の説話は稷下の学士により考案されたと言えるでしょう。
管仲は実在しなかった説
管仲が実在しなかった説も有力となっています。
管仲が実在しなかった説の有力な原因は、同時代の史料に管仲に関わる記述が存在しない為です。
春秋時代に貴族としての管氏は存在しましたが、管仲に関わる記述は存在しないと言えます。
稷下の学士が管仲を名宰相にした理由ですが、管仲は実績もよく分かっておらず、逆に説話が作りやすかったと考えられています。
春秋戦国時代を題材にした漫画キングダムで原泰久先生は最初は嬴政を主人公にしようとした話がありますが、最終的に李信を主人公としました。
主人公を嬴政ではなく、李信にした理由は「李信の方が分かっていない事が多く物語にしやすかった為」だとされています。
同じ事が管仲の説話にも言えるのではないでしょうか。