春秋戦国時代

秦の徳公は雍に遷都した

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宮下悠史

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名前秦の徳公
生没年紀元前710年ー紀元前676年
時代春秋戦国時代
一族父:寧公 兄弟・武公出子 子:宣公、成公、穆公
コメント雍に遷都した記録がある。

秦の徳公は春秋時代のの君主です。

兄の武公が亡くなると、秦公として即位しました。

徳公の時代に秦は雍に遷都し、梁伯と芮伯が来朝するなどしています。

祭祀も活発になりますが、秦の徳公は即位して僅か2年で没しました。

秦の徳公の長子である秦の宣公が後継者になっています。

秦の徳公の即位

兄の秦の武公が亡くなると、秦の徳公が立つ事になりました。

武公には白という子がいましたが、武公の弟の徳公が立ったわけです。

子の白ではなく、徳公がの君主として即位した理由ですが、過去に大庶長の三父が実権を握ったており、権臣が秦の公室を脅かすのを怖れた為ではないでしょうか。

秦の徳公は秦の君主に立った時の年齢が33歳だったと史記に記録されており、親政を行える年齢であり、幼少の白よりは徳公の方が君主として相応しいと考えたはずです。

雍に遷都

史記の秦本紀に次の記述が存在します。

※史記本紀(ちくま学芸文庫)より

徳公の元年、初めて雍城(陝西)の大鄭宮におり、犠牲300牢を供えて鄜畤(ふじ)を祀った。

雍にいることを卜すると、領地が広まって、後世、子孫は馬を河に飲わせるだろうとあった。

上記の記述から秦の徳公は即位して直ぐに、雍に遷都した事が分かります。

雍は長く秦の首都であり、戦国時代の秦の献公の時代まで秦の首都だったわけです。

梁伯・芮伯が来朝

秦の徳公の元年である紀元前677年に梁伯と芮伯が来朝した記録が史記にあります。

の実力は周辺国の梁や芮を圧倒しており、君主が秦に来朝したのでしょう。

秦の穆公の時代に西戎の覇者になったとも言われていますが、既に徳公の時代に下地があったとみるべきです。

伏の節

秦の徳公の二年(紀元前676年)に下記の記述があります。

※史記本紀(ちくま学芸文庫)より

初めて伏の節(六月の三伏の節。初伏の節に郭の四門で犬を殺して悪気を祓うた)をおこない、犬を殺して蠱をふせいだ。

上記の記述から、秦の徳公の時代に儀礼祭祀が活発になった事も分かるはずです。

秦の徳公の最後

史記によると、秦の徳公は立つこと2年で卒したとあります。

秦の徳公は紀元前676年に亡くなった事になるのでしょう。

秦の徳公は長期政権を期待されたと思われますが、即位して僅か2年で亡くなった事になります。

ここで弟の出子が生きていれば、出子がの君主になった可能性があると感じていますが、既に三父らにより誅殺されており、徳公には弟はいませんでした。

徳公には子が3人おり、長子が宣公、中子が成公、末子が穆公でした。

秦の徳公が没すると、長子の宣公が秦の君主となっています。

先代:武公徳公次代:宣公

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