
| 名前 | 秦の霊公 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前415年 |
| 在位 | 紀元前424年ー紀元前415年 |
| 一族 | 父:昭子 子:献公 |
| コメント | 霊公の時代から秦魏戦争が始まった |
祖父の秦の懐公は家臣らにより、悲劇的な最後を迎えており、父親の昭子が既に亡くなっていた事で、秦の霊公が秦公となりました。
秦の霊公の時代の出来事と言えば、紀元前419年に魏が少梁に築城を行い秦魏戦争が始まった事でしょう。
魏の動きに備える為か、秦の霊公が涇陽に遷都した話もあります。
秦の霊公が亡くなった時に、子の秦の献公は即位する事が出来ず、霊公の叔父である簡公が秦公となっています。
秦の霊公の即位
紀元前425年に庶長の鼂が、秦の懐公を囲み懐公は自害しました。
この時に、太子だった昭子は既にこの世になく、昭子の子である秦の霊公が即位しています。
秦の霊公の即位は庶長の鼂らによる擁立だったと考えられていますが、この後に庶長の鼂がどの様になったのかは不明です。
秦の霊公の即位年は不明ですが、年若くして秦公となった可能性もあるのではないでしょうか。
秦魏戦争の始まり
史記の秦本紀によると、秦の霊公の6年(紀元前419年)に、晋が少梁に築城し秦が討ったとあります。
秦本紀には晋となっていますが、既に晋の公室は弱体化しており、晋の領地の大半は名目上は家臣である魏、韓、趙に握られていました。
こうした事情もあり、晋が少梁に築城した事になっていますが、実際には魏が築城したと思った方がよいでしょう。
魏が少梁に築城し、秦の霊公が攻撃命令を出したとするのが自然です。
この戦いで秦は戦果を挙げる事が出来ませんでした。
魏では紀元前417年にも少城に築城した記述があり、秦の霊公にとっては目障りな行為だったとも言えるでしょう。
秦の霊公の時代に魏が少梁に築城を始めた事で、秦魏戦争が開戦になったとみる事が出来ます。
当時の晋の君主であった晋の幽公の夫人は秦出身の女性だった事が分かっており、晋の幽公は秦との戦争に反対であり、戦争推進派の魏の文侯により暗殺されてしまったとする説があります。
涇陽に遷都
史記の始皇本紀に付随された王名表によると、秦の霊公の時代に涇陽の遷都した話があります。
魏の攻勢に前に危機感を抱いた秦の霊公が、前線基地である涇陽まで移動したのではないかと考えられています。
当時の秦の首都は雍だったはずですが、秦の徳公が雍を首都に定めてから、2世紀半ぶりに遷都したとみる事が出来ます。
ただし、涇陽が秦の首都として影が薄いのは、秦の霊公の時代の一時期だけだったからではないでしょうか。
秦の霊公の最後
史記の秦本紀によると、秦の霊公の10年に籍姑に城を築いたとあります。
この年に秦の霊公が亡くなりました。
紀元前415年に亡くなった事になります。
史記によると、子の秦の献公は立つ事が出来ず、叔父の悼子が立ったとあります。
悼子が秦の簡公です。
秦の献公が秦公になれなかった理由ですが、この時に秦の献公は10歳程度の子供であり、政務を行えないと判断されたからではないでしょうか。
尚、秦の霊公は名前の通り「霊」を諡に持つ君主であり、晋の霊公、楚の霊王など、悲劇的な最後を迎えた君主につけられる諡でもあります。
秦の霊公が亡くなった時の詳細は伝わっていませんが、悲劇的な最後を迎えた可能性もあると感じています。