
桓叔の名は成師であり、晋の穆侯の末子でもあります。
兄の晋の文侯が「仇」という縁起の悪い名前であった事から、成師は警戒されたのか封じられる事がありませんでした。
晋の昭侯の時代になると、大邑である曲沃に封じられています。
この頃から桓叔と名乗る様になり、潘父が乱を起こすと兵を率いて翼を攻撃しますが、敗れました。
桓叔は晋の孝侯の時代に亡くなっており、晋の君主になる事は出来ませんでしたが、孫の武公の時代に本家を倒し晋の君主となりました。
尚、晋は最終的に趙、魏、韓に領地は全て取られてしまいますが、桓叔が封じられた曲沃は最後の方まで晋の公室の領地だった記録が残っています。
成師の誕生
晋の穆侯は紀元前802年に、千畝の戦いで勝利しました。
この時に、末子が生まれており、戦勝により縁起がよいと考えたのか、成師という名が付けられました。
兄は条の戦いの年に生まれ「仇」という縁起が悪い名前を付けられていたわけです。
家督を継ぐべき姫仇と末子の成師の名を見て、師服は「物は名によって、おのずと決まる」と述べており、いぶかしんだ話が残っています。
それと同時に、姫仇(晋の文侯)は、成師の存在を警戒した事でしょう。
当時は化学も発展しておらず、縁起などはかなり気にした可能性が高いです。
曲沃の桓叔
兄の晋の文侯は西周王朝が崩壊し、周が二王朝並立時代になっても活躍があり、周の携王を討つ等の功績があります。
しかし、成師を警戒していたのか、存命中に封地を与えるなどはしませんでした。
文侯は成師に活躍の場を与えなかったのかも知れません。
晋の昭侯の時代になると、曲沃の封じられる事になります。
史記によると、この時の成師の年齢は58歳だったとあり、かなり遅咲きだったと言えます。
成師は桓叔と号しました。
この頃の桓叔は一族の長老でもあり、人望も厚かったのでしょう。
史記にも桓叔は徳を好み、晋国の民は皆が懐いたとあります。
ただし、師服や君子らは「晋の内乱は曲沃から起こる」と予言した話が残っています。
桓叔は晋の靖侯の庶孫である欒賓を宰相としました。
桓叔の乱
紀元前739年に潘父が晋の昭侯を暗殺し、曲沃の桓叔を迎え入れようとしました。
桓叔も乗り気になったのか、晋の首都である翼に向けて進軍を行ったわけです。
この時に、桓叔も「機は熟した」とかなり気が大きくなっていたのではないでしょうか。
遂に自分の名前である成師が成就する時が来たと思ったのかも知れません。
しかし、晋の国人たちは、桓叔を翼に入れようとせず、反撃し曲沃の軍を撃退しました。
この時の桓叔は敗戦を被る中で「こんなはずではなかった」と思った可能性は高いはずです。
それでも、桓叔は晋の本家に対し謀反を起こした事になり、本家の翼と分家の曲沃は対立関係となります。
桓叔の最後
桓叔は晋の孝侯の時代である紀元前731年に、亡くなりました。
曲沃の勢力が翼の本家に詫びを入れに行った話もなく、対立したままでの最後だったのでしょう。
桓叔としても、晋の君主になる事が出来ず無念の最後だった様にも感じました。
しかし、桓叔の後継者となった曲沃の荘伯は晋の孝侯を誅するなどしており、孫の武公の時代には本家の翼を打倒し晋公となっています。
物は名によって、おのずと決まるのか
成師の名前の所で「物は名によって、おのずと決まる」とあります。
名前によって人生が決まると述べている発言になるはずです。
成師の子の韓万(韓武子)は、名前が「万」であり極数にあたり、縁起がよい名前になるんでしょう。
韓万の子孫は戦国七雄の韓となり、家は栄えています。
魏の始祖とも言える畢万も「万が極数であり魏が興隆する」との予言がありました。
逆に晋の文公の放浪生活に従った趙衰の名は「衰」であり「おとろえる」を意味し、縁起の悪い名前の様に見えます。
しかし、趙は戦国七雄の一角にまで昇りつめており、家は発展したと言えるでしょう。
ただし、趙氏は一度没落しており、趙衰の名は没落を予言しているとも見てとる事が出来るはずです。
三国志の顔良の名は「良」であり、縁起がよい名前に見えますが、関羽に呆気なく斬られています。
これらを考えると、個人的には名前で人生が決まると言うのは、絶対ではないと感じました。
姫仇と成師の名を見て師服や君子が晋の未来を予言した話がありますが、実際には結果を知っていた後世の人間が考えた説話だったのかも知れません。
| 初代:桓叔 | 次代:荘伯 |