
晋の厲公は春秋時代の晋の君主です。
奢侈だったなどの話もありますが、諸侯同盟を纏め上げ晋による覇者体制を固め、鄢陵の戦いでは楚の共王を破りました。
寵愛する夫人たちの兄弟を重用し、三郤を滅ぼすなど暴君としての一面もあります。
しかし、晋の厲公は明らかに精力的な君主でもあり、自ら出陣するなどの活躍もあります。
当時の晋の問題点を見ぬいていた可能性もあり、晋の厲公は改革を断行しようとしたのではないか?とも思った程です。
最後は欒書や中行偃に殺害されていますが、改革の失敗や下手に温情を掛けてしまった事が原因だと感じました。
精力的だが改革に失敗したのは、殷の紂王や周の厲王と同じ匂いがします。
楚との友好
紀元前582年に楚の共王が公子辰を晋に派遣し、和議を結びたいと述べました。
翌年である紀元前581年に、晋は糴伐を派遣した事が分かっており、楚との和議に応じたのでしょう。
紀元前581年は晋の景公が亡くなった年でもあり、この頃には晋の厲公が中心となり政務を執っていたと考えられています。
同年に州蒲(晋の厲公)が魯、斉、宋、衛、曹の諸侯と合流し、鄭に侵攻しました。
今までの晋が鄭に侵攻するパターンは楚に寝返った場合が大半でしたが、今回のケースは鄭の後継者問題に介入した事が原因です。
楚と対立したわけではないと考えられています。
ただし、晋の方でも楚を完全に信用したわけではなく、魯の成公を抑留したのは、楚に通じたのではないかと疑った為とされています。
晋は厲公は郤犨を魯に派遣するなどもしました。
尚、郤至が周と土地問題を起こし、周の簡王が劉康公・単襄公を派遣し、晋の厲公に訴えた事件があり、厲公が郤至を指導した話があります。
紀元前579年には宋の華元の仲介により、晋と楚の間で第一次弭兵の盟が成りました。
晋秦開戦
令狐の会
令狐で会合を行う事になりましたが、晋の厲公が目的地に先に到着しましたが、秦の桓公は王城に駐屯し黄河を渡ろうとしませんでした。
秦の桓公は大夫の史顆を東岸の令狐に派遣し、晋の厲公と盟約を結んでいます。
晋の厲公の方では郤犨を秦の桓公の元に派遣し、盟約を結びました。
秦の桓公は晋の厲公を信用する事が出来ず、黄河を渡らず、この様な結果になってしまったのでしょう。
信用がない盟約に対し士燮は「こんな盟約は何の役にも立たない」と述べた話しも残っています。
呂相の絶秦
紀元前578年に晋の厲公は、呂相(魏相)を秦に派遣し秦との外交関係を断絶させました。
春秋左氏伝に魏相が述べた事が長文で記録されており「晋の恵公や文公と秦の穆公の話に始まり、秦の康公が友好を断絶させた事など、晋秦の歴史」を伝えています。
晋が秦に断交した話は「呂相の絶秦」とも呼ばれ文学的な価値も評価されている状態です。
麻隧の戦い
晋の厲公は、次の陣容で秦への攻撃を命じました。
| 中軍の将:欒書 | 上軍の将:士燮 | 下軍の将:韓厥 | 新軍の将:趙旃 |
| 中軍の佐:荀庚 | 上軍の佐:郤錡 | 下軍の佐:智罃 | 新軍の佐:郤至 |
さらに、御者を郤毅とし兵車を御し欒黶が車右を務めています。
晋の厲公は呂相の絶秦でも分かる様に、秦を討つ決意を固め諸侯の軍にも参加を求め、必勝の体制で秦との戦いに臨んだのでしょう。
晋の厲公の軍容を聞いた魯の孟献子は「必ず大功を得る」と高く評価しました。
晋と秦の間で麻隧の戦いが勃発しますが、晋は大勝し秦の成差と不更女父を捕虜にしています。
ただし、この軍中で曹の宣公が亡くなったと伝わっています。
晋と諸侯の軍は涇水を渡り侯麗に達し引き上げ、晋の厲公を新楚で迎えました。
晋の厲公が衛に介入
紀元前577年に衛の定公が晋に赴きました。
この時に衛の孫林父が晋に亡命しており、晋の厲公は衛の定公と孫林父を接見させようとしています。
晋の厲公としては、衛の定公と孫林父を何とか和解させたかったのでしょう。
同盟内の平和を維持する活動の一環だったとみる事も出来ます。
しかし、衛の定公は孫林父に会おうとはせず、用事が住むと国許に帰りました。
晋の厲公の方では諦めていなかった様であり、郤犨に命じて孫林父を衛に送らせています。
衛の定公は断ろうとしましたが、夫人の定姜の言葉で、晋の厲公の事も考え孫林父を復位させました。
この時に、晋の厲公の使いとして衛に行った郤犨は晋に戻りますが、甯殖に滅亡を予言された話があります。
会盟
紀元前576年に晋の厲公は魯の成公、衛の献公、鄭の成公、曹の成公、宋の世子成、斉の国佐、邾らと戚で会合を行いました。
戚の会の議題は太子を殺害し君主になってしまった曹の成公を咎めるためです。
会合にやってきた曹の成公は捕えられ、東周王朝に送られました。
戚の会は晋の厲公が同盟諸国の秩序を守るための会だったと言えるでしょう。
さらに、晋の厲公は同年に鍾離に士燮を派遣し、斉の高無咎、魯の叔孫僑如、宋の華元、衛の孫林父、鄭の公子鰌、呉が会盟に参加しました。
呉が鍾離の会に参加したのは、意味があり、晋の厲公としては呉に楚を東方から攻撃及び、権勢をして貰いたかったのでしょう。
晋の厲公の巧みな外交にも見えるわけです。
鄢陵の戦い
鄭が晋との盟約に背き、楚に従いました。
晋の朝廷では鄭に対する怒りが溢れ、欒書が鄭を討つ様に進言しました。
晋の厲公は自ら将となり、黄河を渡河し鄭を目指す事になります。
楚の共王も鄭を救う為に北上し、晋の厲公の本陣では軍議が行われました。
晋のは「戦いべきではない」と主張しますが、郤至が合戦を主張した事で、晋の厲公は決戦を選択しました。
これが紀元前575年に起きた鄢陵の戦いです。
鄢陵の戦いは城濮の戦い、邲の戦いに続く三度目の晋と楚の大戦となりました。
鄢陵の戦いでは、晋が楚に圧倒しました。
楚の共王が目を負傷する程の勝利であり、晋の大勝だったのでしょう。
鄢陵の戦いにより覇権が晋から楚に移ったとされていますが、既に多くの諸侯が晋を盟主として認めており、勢力は晋の方が大きかったとも考えられています。
史記には晋の厲公が鄢陵の戦いの勝利により、諸侯に威勢を振るい天下に号令し覇者になる事を望んだとあります。
ただし、鄢陵の戦いでの勝利を士燮は危ぶんだ話も残っています。
三郤を誅す
史記や春秋左氏伝によると、晋の厲公には寵愛する夫人が多く、大夫たちを退けて、夫人たちの兄弟を重用しようとしたとあります。
この中に胥童という者がおり、過去に郤至との因縁がありました。
欒書も郤至を快く思っておらず、巧みに讒言する事になります。
晋の厲公は郤至の行動を怪しみ、殺害しようと考えました。
晋の厲公が狩猟を行った時に、郤至が宦官を殺害する事件を起こす事になります。
郤至の行動に怒ったのが晋の厲公であり、郤至だけではなく、郤錡・郤犨ら三郤を殺害しようと思い至る様になったわけです。
晋の厲公は胥童に命じ、郤至、郤錡・郤犨ら三郤を討ち取りました。
胥童は中行偃や欒書も討つべきとしましたが、晋の厲公は「忍びない」とし中行偃や欒書には、三郤を滅ぼした事を侘びました。
中行偃や欒書は晋の厲公に命を助けられた事で感謝の言葉を口にしましたが、内心では「晋の厲公を何とかしなければやられる」と思っていた様です。
晋の厲公は功績があった胥童を卿に任命しました。
晋の厲公は改革者だったのか
三郤を誅すにあたり、晋の厲公が寵愛する夫人の兄弟を重用した話があります。
この話だけを聞くと、晋の厲公が能力に関係なく、夫人を喜ばせたり、自分にとって都合の良いものばかりを重用した様に思うかも知れません。
しかし、春秋時代の覇者体制では盟主である晋が、同盟国同士の戦争を禁止していた側面があります。
晋の厲公が土地を得て勢力を伸ばすには、戦争で領土を拡大し側近たちを封建して、拡大した分の領土を治めさせる必要があったわけです。
しかし、晋は同盟国同士の戦争を禁止していた事で、晋だけではなく各国の君主は勢力が拡大しにくい状況にありました。
これに対し、各国の大臣は封建された領土の統治や、戦争になれば将軍となり軍事権を持ち、さらに小国との外交も担当するなど様々な権限を有していました。
晋の厲公はこうした状況を見て、晋の公室の権力を強くする為に、夫人の兄弟たちを重用し側近政治を行おうとしたのではないでしょうか。
ただし、こうした行動は大臣にとってみれば、厄介な行動であり、晋の厲公の存在自体を疎んじた様にも感じています。
実際に晋の公室は大臣達により、権益を奪われていますが、晋の厲公は問題を既に看過しており、改革しようとした様にも見えるわけです。
この点は、西周王朝の周の厲王にも似た様なものを感じています。
晋の厲公の最後
晋の厲公は匠麗氏の家で遊びますが、この時に欒書や中行偃が突如として急襲しました。
欒書や中行偃は晋の厲公を「危険人物」として認識しており、先手を打ち捕えてしまったのでしょう。
欒書や中行偃は士匄や韓厥も誘いますが、断られました。
捕えられた晋の厲公は、程滑により命を落としました。
晋の厲公は翼の東門の外に僅か一乗の車だけで埋葬したと記録されています。
諸侯を弔うのは七乗の車と言うのが普通であり、かなり待遇の悪い最後になったと言えるでしょう。
欒書や中行偃は晋の襄公の曾孫である子周を周から迎え入れ、国君として擁立しました。
これが晋の悼公となります。
晋の悼公は名君として名高い人物であり、晋の全盛期に匹敵するだけの勢力を回復しますが、晋の厲公の時代に土台が出来上がっていたと考える事も出来るのではないでしょうか。